(4)中国現地でのスケッチ(1)馬うけ、西洋絵画の構図や人体の研究をした時期があったと想像される。栖鳳が渡欧後に西洋絵画の技法を取り入れた日本画を創造していったことからも、当時の竹杖会の指導方針として頷ける。また、関雪が栖鳳に師事を仰ぐきっかけとなったのは明治36年(1903)第5回内国勧業博覧会に出品された《羅馬之図》(海の見える杜美術館蔵)であると述べていることからも、関雪には栖鳳の方針にはおおむね賛同していたと考えられる(注6)。これまで、西洋絵画にも学んだことは関雪の言説から明らかではあったが、具体的にどのような学習をしていたかは不明であった。今回の調査で、関雪が西洋絵画として何を学び、何を吸収したか、その一端が明らかになった。具体的な模写元などについての調査は、今後進めたい。旅先でのスケッチは数多く残されているが、今回中国の名勝のような特徴的な風景を描くものは多くないということが判明した。一方で、人物、馬、家、船、山や水辺などの日常的な風景は、場所が明らかではないが恐らく中国で描かれたものを数えるとかなりの点数であった。点数にすると先述した船や動物のスケッチの数が多いが、風景スケッチは力のこもったものが多い。日常的風景は作品の取材のため、名勝などは旅の記録のためのスケッチという印象が強い。関雪は中国で、人々の生活や風物、自然を取材し、作品に反映しようとスケッチに残したと考えられる。第二章 スケッチ類、画稿から見る《木蘭》前章までで関雪のスケッチを概観した。関雪にとって特に強い関心を持っていたモチーフは何か、そしてどのような絵画学習をしていたかが明らかになった。この章ではこれらのスケッチから作品《木蘭》へどのように反映されていったか、前章のスケッチで特筆した中から「馬」と「西洋絵画からの学習」に注目して見ていく。関雪は「木蘭辞」に高い関心を持ち、大正7年(1918)の《木蘭》の他に、大正9年(1920)に《木蘭詩》(京都国立近代美術館蔵)〔図8〕と《木蘭詩巻》(ボストン美術館蔵)を描いており、現在確認できるだけで計3回描いている。また、《木蘭》は屏風であるが、《木蘭詩》は額装、《木蘭詩巻》は絵巻で、複数場面に分けて描かれる。これは、関雪の漢詩の持つ物語に対する理解の深さと技量の高さを示すが、加え―117――117―
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