鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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て騎馬人物像という点でも関雪にとって描きたい題材であったと考えられる。先に触れたように今回調査したスケッチ類の中には騎馬人物像が数多く描かれ、その中には《木蘭》を始めとする「木蘭辞」主題の作品に向けて描かれたと思われるスケッチが数点あったが、それらは必ず木蘭と共に馬が描かれている〔図9〕。「木蘭辞」を主題とした作品を見ていくと、《木蘭》では水辺で休息をとり木蘭が家族に思いを馳せる場面のみが描かれるが、《木蘭詩》、《木蘭詩巻》を見ていくと、《木蘭》の該当場面とともに複数人で戦場へと急ぎ向かう場面と、家に戻り馬を休ませつつ木蘭が女性の姿に戻る場面が追加されている。《木蘭》と他2作の作品形態の変更と場面の追加は、関雪が主題の物語を表現すべく試みた成果であると考えられるが、追加された4場面のうち2場面に、動静さまざまな馬の姿が物語に沿って描きこまれる点に、騎馬民族に原点を持つ漢詩であることを強調する目的と、関雪の馬に対する愛着の深さを感じさせる。後年に関雪は動物画の画家として評価されるが、それは昭和8年(1933)の《玄猿》が契機となっており「猿の画家」と称された。しかしそれまでは「馬の画家」としての評価が高かった。とりわけ、大正4年(1915)の《猟》(白沙村荘橋本関雪記念館蔵)〔図10〕では《木蘭》と同じく満洲族の装束に身を包んだ人物が、馬上で狩猟に興じる様子が描かれている。《木蘭》では、「木蘭辞」が北方の騎馬民族の歌にはじまった漢詩であることを満洲族の服飾に示したと見られるが、馬の描写と同様、関雪の漢詩への深い造詣を窺わせる。また、今回の調査で、関雪が馬の種類にも注目していたことが明らかになった。昭和13年(1938)から昭和16年(1941)ごろの中国でのスケッチで、馬のスケッチの横には「胡馬」とかかれ、「耳小サク/脚短かし/尾殊ニ長し」と身体的な特徴がメモ書きで添えられている。同じスケッチブックには他にも「蒙古牛」も描かれ、同様に身体的特徴がメモされている。当時、日本の馬(とりわけ軍用馬)については、日本在来種が気性が荒く小柄であったことから、明治期以降より大柄の西洋種との交配が進んでいたようである(注7)。関雪の見た「胡馬」が中国在来の馬であるかは未調査であるが、中国の馬の特徴に注目し描き止めていたことから、日本の馬との違いを感じ取り、作品に反映しようとしていたと考えられる。しかし、このスケッチが《木蘭》以後のものと推定され本作への反映は考えにくいが、関雪がその後馬を描く中で、どの程度意識されていたかは今後検討していきたい。―118――118―

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