ら左への流れが存在するものの、どこか演劇的な人物配置であり、西洋絵画からの学習も反映されていると考えられる。これらの作品の表現から《郭巨》そして《木蘭》の表現に至る過程についても、今後考えたい。おわりに本論では、関雪の残したスケッチ類を調査し、新たに判明したことやこれまでの研究を補完しうることを検討した。スケッチからは、関雪の興味関心の対象と、作品に至るまでの制作の過程が明らかになった。関雪が中国で見、描きたいと感じたものは自然や家、老人や動物であり、同時代の画家に見られるチャイナドレスなどは見られないものの、その背景には同時代的なオリエンタリズム的関心が見てとれる。一方、中国の先人の画家たちが見た中国の自然に学びたいという意識が明確にあり、一概に同時代的な関心でまとめられない(注11)。ここに関雪の中国観が表れていると言えるだろう。《木蘭》については、関雪の動物への愛着もあるが、騎馬民族という「木蘭辞」の成り立ちの背景を強調すべく馬が描かれている可能性を指摘した。これまで指摘した満州族の服飾に加え、馬もまた、関雪の漢籍の素養の高さを以て「木蘭辞」の物語を彩るため描きこまれたと考える。また、スケッチには物語を意識した人物配置や画面構成を研究した痕跡がみとめられたことから、関雪が意識的に、さらに日本画だけでなく西洋絵画や彫刻から、主題を効果的に表現するための研究を積んでいたことが明らかになった。画面構成の研究をはじめとする西洋絵画からの学習は、《郭巨》のような中国故事と西洋の宗教画を結びつける特異な表現に結実し、孝女木蘭の表現へと繋がった。柔軟な引用には関雪の構想力の高さを示すと同時に、関雪が良いと考えた表現を貪欲に学習し取り入れていく姿勢が表れている。また、幼い頃から西洋と東洋双方の文化に触れる港町神戸で、さまざまな文化人が出入りする家に育ったことが下地にあるとも考えられるだろう。《木蘭》制作当時の関雪は、中国への従軍、旅行を経ているが、まだヨーロッパの地は経験していない(注12)。今後、欧州の地を経て関雪の中国観に生じた変化や、作品への反映についても検討していく。あわせて、竹杖会での学習の様子を窺わせるスケッチは、栖鳳とその門下生の研究においても貴重な資料である。今後の京都画壇研究のより一層の充実が望まれる。―120――120―
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