鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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画伝』の「呉仲圭石法」頁の上部の石、及び「北苑巨然石法」頁の下部の石を一つの画面に合わせた。これに対して、傅抱石は「北苑巨然石法」頁だけを用いている。図3では、高島北海は「礬頭皴」〔図2〕のタイトルで、「黄子久皴法」頁を使った。黄子久、即ち黄公望(1269~1354年)は、確かに礬頭皴をよく使っていた。この図の『芥子園図伝』原版は礬頭皴であると明確には述べられないが、その特徴はよく示されている。『写山要訣』が用いた図版は印刷の都合で、筆峰の角度や線の曲度には過度の円滑さが見え、標準の礬頭皴とは言い難い。しかし傅抱石の注意はここにはなかったようである。彼は『芥子園図伝』(初集、巻之三)の「諸家巒頭法」一節の中から、「郭熙」〔図3〕の頁を採用している。郭熙の代表的な皴法は、巻雲皴・雲頭皴である。この頁の題詞にも、『芥子園図伝』は「輒作雲頭(常に雲頭皴を描く)」と述べている。高島北海は雲頭皴ではなく、礬頭皴について述べているのだから、傅抱石による変換は論理的には納得し難い。そして図6では、高島北海は『芥子園画伝』(初集、巻之三)の「皴法」一節の「小斧劈法」頁を引用し、「小斧劈皴」というタイトルをつけていた。傅抱石はこれを、「諸家巒頭法」一節の「李思訓」頁に置き換えた。李思訓は唐代の画家であり、南北宗論では「北宗の祖」と位置づけられている。この頁の題詞には、「小斧劈皴也」(注12)と記されている。同じく小斧劈皴が示されているものの、これをわざわざ換えた意図はどこにあったのだろうか。高島北海の説明を参考に、ここで一つの推論を提出したい:高島北海の論点は、小斧劈皴が「山峰石塊共に用ゆべし」、即ち、山や石両方の表現に用いることのできる技法という点にあった。「小斧劈法」頁は、一つの石を示している。それに対して、「李思訓」頁は山とも、石とも見なすべきものであり、高島北海の本意を一層明瞭に表すことを可能にする図版であったのだと思われる。以上の分析をまとめると、高島北海の皴法に対する理解に於いて、明らかな「誤り」と評価される点はない。傅抱石による置換によって、図版の質は確かによくなったが、そこまでしなければならなかった必然性は見えにくい。そのため、傅抱石の高島北海に対する批評については再考が必要である。傅抱石はどういう動機から、高島北海の図版の問題をそこまで強調したのであろうか。傅抱石が残した資料の中にこれに関わる手掛かりはないため、その理由を明確に指摘することはできない。ここでは一つの推論で彼の行動を解釈してみたい。中国で生まれた「皴法」および中国の画譜『芥子園画伝』について、最もよく理解しているのは中国人のはずだ。そう信じて、傅抱石は高島北海の意見をそのまま受け入れるのではなく、自分の理解に従って最適な図版を探し出したのではないだろうか。―4――4―

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