(1)1910年代:私邸装飾から公共建築へ(2)1920年代:第一次世界大戦と美術同分野の基礎研究としては、テレーズ・バリュエルの修士論文が重要である(注6)。本稿では、作品同士の連続性により注目して全体像を捉えるべく、はじめに作品の成立背景を概観し、各時代の画家の交友関係や社会的立場を確認したのち、表現に着目し画家の意図を考察する。1.成立背景ドニが最初に手がけた世俗の公共建築装飾は、シャンゼリゼ劇場天井画〔図1~4〕である(注7)。建築家オーギュスト・ペレによる鉄筋コンクリート造の近代的な劇場で、ドニは彼に注文をもたらした実業家ガブリエル・トマの邸宅を飾る壁面装飾《永遠の春》を1908年に制作していた。世紀末の美術を共に牽引したナビ派の画家ケル=グザヴィエ・ルーセル、エドゥアール・ヴュイヤールも装飾に参加した。図像選択には、象徴主義的な芸術家サークルを介し親交を持った音楽家ヴァンサン・ダンディが協力している。大画面の制作にあたり、ドニはペレに設計を依頼し、後に自宅となる建物の敷地内にアトリエを建設する。本作は、制作環境の整備という面でも、装飾画家としての道を拓く契機となった。1925年のプティ・パレ美術館天井画〔図6、7〕では、制作を取り巻く状況が一変する(注8)。第一次世界大戦は、以前より保守的な政治的立場を示していたドニの愛国心をさらに掻き立てた(注9)。1900年パリ万博に際し建設されたプティ・パレは市立美術館となり、大戦前にはフェルナン・コルモンやアルベール・ベナールらアカデミックな画家たちが天井画を手がけている。この人選は、パリ市庁舎に代表される第三共和政初期の政府による壁画発注の延長線上に位置付けられよう。ドニへの依頼は大戦末期、1918年7月のパリ市議会で承認された。ここには、友人の作家で当時パリ市議会議長を務めていたアドリアン・ミトゥアールの関与も推測される。1901年に彼が創刊した国粋主義的な傾向の雑誌『オクシダン』は、理論家ドニの主要な発表の場となっていた(注10)。フランス美術史を体現する作品の選定作業を含む本作は、単なる装飾を超えた歴史記述といえる。複製図版の手配には、ドニと近しい美術史観を示した戦間期の重要な美術史家で、ルーヴル美術館学芸員を務めたポール・ジャモも協力した(注11)。戦時下のフランスで、当時の政府に好都合な政治信条、美術史観をドニが有したことは本作の依頼と無関係でないと考えられる。―136――136―
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