鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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(3)1930年代:「公式」の画家へ1928年、リュクサンブール宮殿内の元老院階段天井画〔図10〕は、制作を予定していたエドモン・アマン=ジャンが辞退したため、同空間の壁画を手がけた画家リュシアン・シモンがドニを推薦した(注12)。元老院史料室保管の資料から、初期の計画では画家ジョルジュ・デヴァリエールの参加も検討されていたとわかる(注13)。1919年に共に宗教美術の学校兼工房、アトリエ・ダール・サクレを設立したデヴァリエールをはじめ、当時のドニが伝統的保守でも前衛でもない、いわゆる「中道」に位置づけられる彼らと近しい関係にあったことが窺える。1931年の国際労働機関の階段装飾〔図12〕は、国際キリスト教労働組合連盟からの寄贈品として制作された(注14)。ナビ派時代のパトロンで国際労働機関理事会長を務めたアルテュール・フォンテーヌもこの依頼に関わっている。1936年のシャリテ市民施療院〔図13、14〕では、アトリエ・ダール・サクレの生徒でのちに宗教美術の改革者となるマリー=アラン・クチュリエの父親が評議会にドニを推薦した(注15)。1937年のパリ万博では、かつてのナビ派、ピエール・ボナール、ヴュイヤール、ルーセルと共にシャイヨー宮劇場壁画〔図15、16〕を描いている(注16)。万博の一環として開催された「独立派芸術の巨匠たち」展にもナビ派の作品が展示されており、フランス近代美術の重要な潮流のひとつを成した現存作家として参加が求められた彼らの位置が見てとれる(注17)。ドニの壁画は目立たない場所にあるが、「連帯館」でもフェルナン・レジェ、ロベール・ドローネーらと共に壁画を手がけるなど、万博全体ではむしろ広範な活躍の場を得ていた(注18)。同時期に壁画を描いたリセ・クロード・ベルナール〔図17~19〕は、文化教育大臣ジャン・ゼーのもと「パリで最も近代的なリセ(注19)」として開校した(注20)。設計を担ったアカデミーの建築家ギュスターヴ・ウンデンストックとの親交が依頼に繋がったとされるが、ここには万博と一貫するドニの積極的な社会参画の姿勢を見ることができよう。1938年、フランス政府から国際連盟への寄贈品として制作されたパレ・デ・ナシオン壁画〔図20〕は、ドニにとって最大の栄誉であった(注21)。会議室の壁画を描いた画家ホセ・マリア・セルトがドニを推薦したとされ、その場にはリュクサンブール美術館学芸員で万博の美術責任者を務めたルイ・オートクールも同席している(注22)。共同制作者としてドニはボナール、ヴュイヤール、ルーセルを推薦するが、ボナー―137――137―

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