中国人である傅抱石の意見は以上で論じた。では日本で、高島北海の皴法理論や画作はどのように受け止められていたであろうか。そして傅抱石は高島に対する批評や高島の実作品に対してどのような見解を持っていたであろうか。傅抱石が留学した1933年には、高島北海の画論はもう過去のものとなっていたが、『写山要訣』出版当時は、高島は日本画壇の新旧画派の両方から重要視されていた。一つの例を挙げて見ると、1904年2月20日、高島北海は同じ日に新旧両派に誘われて、皴法に関する講演を行った。このような人気画家として、批判を受けることは避けられない。高島北海は明治40年(1907年)の日本美術協会展に《蜀山図》を出品した。当時の評論家、筆名「紅秋生」から、《蜀山図》をこう評価されていた:「之は実査の写生でさうだろうと思はれるが、スケッチ的で重味がなく、例の皴法をごつ〵〳と無暗に使はれたので浅い面白昧の無いものとなった」(注13)。井土誠はこの批評を支持し、高島の諸作品は「日本画皴法によるスケッチ的表現」が特徴的であると指摘した(注14)。傅抱石の論点とは異なり、ここでの批評の対象は高島北海の理論ではなく、技法である。高島北海は次のように、皴法の意味を理解している:「…山峰或は石塊の、凸凹明晦を示すが為めに用ゆるときは、一種の陰影と見做すを適当とす、然れども亦実際此皴を具せる山岳あり」(注15)。すなわち、高島は、皴法を「凸凹明晦を示す」「陰影」としていた。この点から考えて、彼の皴法に対する認識は、デッサンにおいて、線で構成された陰影を用いて景物の凹凸明暗を形づくることと近似のものだったと考えられる。スケッチは英語のsketchに由来する言葉で、現代中国語では「速写」と訳す。デッサンはフランス語のdessinに由来し、日本語では「素描」と訳される。中国語においても「素描」である。広義の意味においてスケッチとデッサンには重複している部分があり、紅秋生や井土誠はこの曖昧な意味で「スケッチ」という言葉を使っている。だが現在の中国美術界では、狭義の意味で、スケッチとデッサンには各自の傾向があるとして別々に認識されている。スケッチは、大まかに対象を描写することを指し、下絵、略図の意味がある。デッサンは、形体表現を基礎に、明暗の表現を尊重し、平面上において物体の立体感を表現する技法である。高島北海の説によれば「写山の骨髄は皴と輪郭」(注16)である。上記のように区別するならば、ここの「皴」はデッサン、「輪郭」はスケッチに近い意味であると思われる。スケッチ式の線を利用して、山や石の輪郭・構造を描き出す。その上で、明暗法に従い、デッサン式の線で山や石の立体感・質感を表現する─これが高島の主張であったように思われる。一方、南―5――5―
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