鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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⑭ フランチェスコ・ボッティチーニ《パルミエーリ祭壇画》思想背景の再検討─ルネサンス期フィレンツェにおけるオリゲネス思想の受容をめぐって─研 究 者:京都芸術大学 非常勤講師  秦   明 子はじめに本稿ではまず、オリゲネスという多分にヘレニズム的な要素をもつギリシア教父の思想がフィレンツェで再興したその背景を明らかにするため、15世紀初めの知識人たちがどのように教父神学に関心を抱くようになったのか、その経緯を明らかにする。通常、フィレンツェ公会議(1439年)を契機としてギリシア思想の再興が行われたと理解されることが多いが、それ以前よりフィレンツェではギリシア教父たちのテクストの積極的な受容が行われていた。次に、フィレンツェにおけるオリゲネスの受容に影響力をもっていたと考えられるアンブロージョ・トラヴェルサーリ(1386-1439)周辺のネットワークを再構成することを試みる。また、オリゲネスの思想は、限られた作例ではあるものの15世紀の視覚芸術にもその影響が指摘されている。この時期のフィレンツェで受容されたオリゲネスのテクストは、いかなる点が彼らにとって意義をもつものだったのか。最終的には、オリゲネスの思想がフィレンツェ美術になした重要性と特殊性を明らかにしたい。1.教父神学への関心の萌芽フィレンツェにおける教父神学への関心は、14世紀末、それまでヴェネトやロンバルディアにその中心があった人文主義を、フィレンツェで継承しようとする動きのなかで生まれたと考えられる。この頃、サント・スピリト修道院のルイジ・マルシーリ(1342-94)の僧房では、書記官長コルッチョ・サルターティ(1331-1406)を筆頭に、ニッコロ・ニッコリ(1364-1437)やレオナルド・ブルーニ(1370-1444)、ポッジョ・ブラッチョリーニ(1380-1459)等、後にフィレンツェの人文主義者の第一世代となる若者たちが日々集い議論を交わしていた。マルシーリは、パドヴァとパリの大学で二十年間、哲学と神学を学びスコラ学の課程を修めている。しかし、1370年代にパドヴァでペトラルカと接点をもったことによって、ペトラルカ的な教養に傾倒した。留意すべきは、スティンガーが言及するように、これらの若者たちがもっとも感銘を受けたのが、マルシーリのスコラ的な知識ではなく、その修辞学や古典の知識だったことである(注1)。一方、彼らのこうした関心を支えたのが、ボッカッチョがサント・スピリトに遺贈した古典の蔵書だった。そこには、アンブロジウスやラクタンティウ―147――147―

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