鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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ス、アウグスティヌス等ラテン教父たちの写本が含まれており、それらに加えてマルシーリは、こうしたラテン教父たちがかつて詳細に研究したバシレイオスの『ヘクサエメロン』やグレゴリオスの『人間創造論』といったギリシア教父による聖書解釈の古典後期のラテン語訳をサント・スピリトのために購入したことが分かっている(注2)。ペトラルカが中世においてラテン教父たちに注目したのは、彼らの著作が、ラテン語の修辞学の伝統を継承した「キリスト教の古典」だったからに他ならないが、フィレンツェにおける教父神学への関心は、まさしくペトラルカ的な人文主義への憧憬、すなわちフィレンツェにおける人文主義の誕生という動向のなかで生まれたと考えられる。その後、サルターティは1397年にビザンチンの学者マヌエル・クリュソロラス(c. 1350-1415)を招聘した(注3)。クリュソロラスは、サルターティのサークルの人文主義者たちにギリシア語を教えたことで名高いが、それだけでなく「知的かつ文学的な営み」としての翻訳技術を彼らに教え、彼らをギリシア古典に傾注させる引き金をつくった(注4)。2.トラヴェルサーリの教父研究トラヴェルサーリは、初期キリスト教の教父の著作を中心に多くのギリシア語のテクストをラテン語に翻訳した。そのため15世紀前半の教父研究の発展において重要な人物として目されているが、ここではどのように教父への関心が形成されたのかを見ておきたい。トラヴェルサーリは14歳(1401年)でサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ修道院に入り、カマルドリ会の総長に選出される1431年まで、およそ30年間を修道院で過ごした(注5)。しかしトラヴェルサーリは、外の世界から隔てられていたわけではなかった。カマルドリ会は、修道士の外出は禁止していたが、訪問客は歓迎していた。したがって、トラヴェルサーリは訪問客や書簡を介して、常に内外の知識人たちと連絡を取っていたことが分かっている。なかでもニッコリは、トラヴェルサーリに多大な影響を与えた人物だった。ニッコリは、サント・スピリトの会合時よりフィレンツェの人文主義運動の中心的存在であり、多くの人文主義者たちと接点をもっていた。トラヴェルサーリは、ニッコリを通じて各地の人文主義者のコミュニティと接触し、また、ニッコリがこうしたネットワークを駆使して収集した膨大な写本が、後のトラヴェルサーリの教父研究の拠り所となった。トラヴェルサーリはクリュソロラスとも、ニッコリを通じて接点をもち、影響を受けている。しかし、クリュソロラスから直接ギリシア語を学んだことはな―148――148―

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