かった。トラヴェルサーリはクリュソロラスのギリシア語文法書『エロテマタ』を所有してはいたが、ギリシア語を独学で学んだとみずから記している(注6)。また、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリには、デメトリオス・スカラノスというコンスタンティノープル出身のギリシア人がいた。スカラノスは1406年に修道院に入り、1417年に修道士となり、1426年に亡くなっている。スカラノスの存在もトラヴェルサーリにとって小さなものではなかった(注7)。さらに、トラヴェルサーリが修道士として教父研究に勤しむにあたって重要だったのが、彼が修道院に入った頃に顕著になっていた、反古典主義者たちに対するサルターティの一連の主張だった(注8)。サルターティは、聖書の寓意的な意味を理解するにあたっての古典の有用性を主張し、教父たちが異教の哲学や文学についての知識をもち、それを利用したことを強調している。すなわち、教父たちの修辞法は、異教の詩人や古典の修辞家たちに依拠しており、古典を学ぶことは、聖書や教父による聖書の釈義を理解するために不可欠であると主張したのである。こうしてサルターティは、教父研究を支持した。また、当時の修道院長マッテオ・グイドーネ(1341-1421)も、トラヴェルサーリのラテン語やギリシア語の知識が教父研究に向けられることは、修道院での信心に貢献するものであると研究を擁護している。聖職者であるトラヴェルサーリが、人文主義という文脈において教父研究に没頭できた特殊性は、こうした状況すべてがそれを許したゆえだったことになる。3.視覚芸術への影響ここでは、トラヴェルサーリの教父研究が視覚芸術に与えた影響について見ていきたい。トラヴェルサーリの教父研究は、美術史上特にギベルティによる二つ目の洗礼堂の扉(以下「天国の門」)〔図1〕との関係において言及される。まず、トラヴェルサーリは1422年頃、メディチ家の兄弟にブロンズの聖遺物容器〔図2〕の注文を委ねており、それはギベルティによって制作された(注9)。ギベルティは、この注文をきっかけにトラヴェルサーリと親交をもったと考えられており、二人の関係性は、クラウトハイマー以降、「天国の門」(1425-52)をめぐる仮説の根拠のひとつとして用いられている。クラウトハイマーの仮説は、最初に提出されたブルーニのプログラムと現行のそれとの根本的な相違にもとづいている。ブルーニのプログラムがギベルティの前作を踏襲した前時代的なものであったのに対して、現行のプログラムは、旧約の物語を十のパネルで構成し、各々が関連するエピソードを含んでいる。それは旧約の物語を解釈44―149――149―
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