鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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北宗論以降の中国画論において重要視された「書画同源」、「筆墨趣味」といった言説は、『写山要訣』の中では全く言及されていない。高島は北宋から元代までの中国画家・様式にある程度の認識を持っていたが、明清時代以降の理論に殆ど言及しておらず、全く興味すらも示していない。高島北海の皴法に対する理解は、紅秋生や井土誠が指摘したように、西洋式のものであったと言える。そして、これは彼の絵画が示している特徴とも一致する。《蜀山図》(《蜀山》とも記される)は1907年当時、宮内省御用品になったが、いまは所在不明である(注17)。《蜀道七盤関真景》(〔図4〕)は制作時間が《蜀山図》と近く、しかも同じく中国四川省(古称蜀)の風景を表現しているので、ここでの参考画像とする。《蜀道七盤関真景》は雅叙園の旧蔵品であり、「明治期における新しい南画の最大成果の一つ」との誉れを持つ名作である(注18)。その画面は、《蜀山図》に劣らず、高島北海の技法能力をよく示していると推定できる。山や石の細部を観察すると、確かに水彩画や鉛筆画の筆法に近い。「皴」といえば、水分が少ない毛筆で擦ることである。しかし高島北海は、細い線を重ねて、近似する効果を作った。高島北海の自説によると、彼は特定の師につかず、独学で画技を学んだという。美術史研究者井土誠は、高島北海は高橋由一の天絵楼、川上冬崖の聞読画館、横山松三郎の松塾、あるいは国沢新九郎の彰技堂のような洋画塾において水彩画を習得したと推測している(注19)。《蜀道七盤関真景》の描き方は、この説によって部分的に説明が可能である。一方、『写山要訣』から見ると、『芥子園画譜』など古い中国の書籍が、彼の美術認識の基礎であった。『芥子園画譜』は木版印刷品のため、皴の表現は肉筆画と異なり、線の重なりで皴の効果を模倣していた。『写山要訣』の挿絵も、『芥子園画譜』の表現と相当に近い。筆者の推論では、高島北海は幼い頃、印刷品の画譜から皴法を勉強しており、専門の画家による実技指導を受ける機会がなかったことから、皴法の表現方法に一種の誤解が生じたものかと思われる。伝統的な立場から見れば、これは高島の認識における問題点であったと指摘することが可能である。だが、高島北海の本画を見ず、単に『写山要訣』に基づいているだけでは、この問題点に気づくことは困難であろう。管見の限り、傅抱石が日本に滞在していた1932年から1935年までの間に、高島北海の絵画が東京の展覧会に出品された記録はない。傅抱石は高島北海の画作を実際に見ていなかった可能性が高い。それ故に、傅抱石は訳書『写山要法』の中で、高島の皴法理解についての問題点を指摘しなかったものと思われる。しかし見方を変えれば、20世紀初期、西洋理論の東洋絵画への導入に熱をあげてい―6――6―

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