4.オリゲネスの再興前章で見たように1420年代以降、教父研究の発展の成果が、視覚芸術にも波及するようになり、その後、ヴィントが論じているように「オリゲネスの再興」というべき現象が起きる(注15)。ボッティチーニによる《パルミエーリ祭壇画》(1475-77)〔図5〕は、この現象の一例として挙げられる作品である。しかし本作品だけが、オリゲネスの思想が反映されているとして非難された。ここで指摘したいのは、当時「異端」であると非難された思想は、実際には、サルターティから続くフィレンツェの人文主義が、絶えず関心を寄せていた「魂の不滅」という問題に連なるものであり、それはまた、それまで彼らが博捜し、収集し、翻訳してきた古代ギリシア哲学に由来する問題でもあったということである。祭壇画が非難されたのは、注文主であるパルミエーリが晩年に著した長編詩『生命の都』(1455-64/72)〔図6~8〕に、「人間の魂が天使の起源をもち、肉体に先立って存在する」という概念に加えて、「自らの選択によって天国へ昇るのか地獄へ堕ちるのかが決まる」という「自由意志」が奨励されていたことに起因する(注16)。パルミエーリによれば、人間は、堕天使ルシフェルが神に反逆した際に、中立の立場にとどまった天使たちであり、その優柔不断さゆえに、人間の形を与えられ、地上において再度、善と悪のどちらを選択するのかを決める。こうした概念はオリゲネスの『諸原理について』にもとづくものだった(注17)。パルミエーリは1420年代、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリの回廊で開かれていた「会合」に参加しており、『生命の都』で開陳された彼の思想は、トラヴェルサーリの影響下で培われたと考えられる(注18)。しかしながら、パルミエーリと『生命の都』の註釈者であるレオナルド・ダーティ(1408-72)は、オリゲネスの評価がきわめてアンビヴァレントであることも理解しており、彼らは批判を受けることを予期していた。したがって詩の本文、及びダーティによる註釈には、上記のオリゲネスの見解が、キリスト教の信仰から逸脱していないことを示そうとする記述が確認できる(注19)。では、オリゲネスの思想は、パルミエーリにとっていかなる点が意義をもつものだったのか。最初に言えることは、パルミエーリが人間の「自由意志」を重要視していたことである。たとえば、彼が二十代の後半に著した『市民生活論』(1431-39)では、人間の生そのものが選択にもとづいていること、なかでも「良き市民」となることが、すべての選択のうちでもっとも崇高な選択であることが論じられている。そして同様に『生命の都』においても、人間存在におけるもっとも価値のあるものとして「自由意―151――151―
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