注⑴ C. L. Stinger, Humanism and the Church Fathers: Ambrogio Traversari and Christian antiquity in the Italian Renaissance, Albany: State University of New York Press, 1977, pp. 1-26.⑵ A. Mazza, “Lʼinventario della ʻparva librariaʼ di Santo Spirito e la biblioteca del Boccaccio,”Italia medioevale e umanistica, IX, 1966, pp. 1-74.教の教義とギリシア思想、とりわけプラトンの思想を融合しようとする動きが徐々に表面化していた。ただ、ひとつ付記しておきたいのは、トラヴェルサーリ自身は決して、両者の同化に積極的ではなかったことである。しかし、トラヴェルサーリの古代哲学にかんする翻訳は、彼が期待したようなキリスト教擁護にはつながらず、逆に古代哲学とキリスト教の教義とのシンクレティズムを加速させる結果となった。『生命の都』は、こうした環境のなかで熟成されたパルミエーリ独自の救済論として理解することができる。同時代の文献によれば、「異端」であるという疑念は当初、詩に対して、すなわち、パルミエーリの信仰心に対して起こったものだった。その後、徐々に詩における「異端」的性質が祭壇画と結びつけられ、16世紀半ば~17世紀半ばまでのいずれかの時期に、祭壇画が設置された礼拝堂に聖務禁止の措置が講じられている。おわりに本祭壇画は以上のように、思想史の展開を踏まえることで、これまでとは異なる意義をもつようになると考えられる。プラトニズムが隆盛をきわめる過程において、フィレンツェではまず、ギリシア教父研究の発展という前段階を経て、オリゲネスの再興に至るのである。紙幅の都合上触れられなかった点も多いが、フィレンツェ美術が、思想との密接な関係をその特質として挙げるなら、本祭壇画は、翻って15世紀中葉のフィレンツェの思想的潮流を象徴する作品として扱われるべきではないだろうか。⑶最初の滞在は1397年2月~1400年3月まで。その後1413年の夏に数ヶ月、そして1414年の1月~2月に二度目の滞在をしている。⑷クリュソロラスは、ギリシア語をラテン語に翻訳するには(聖書は例外として)キケロの文体が相応しいと主張した。実際、この時期の知識人にとって中世の翻訳は不十分であったゆえに、彼らは新たに修辞的な翻訳を行っている。⑸修道院での初期の生活については知ることができないが、1415年以降の生活については900通あまりのラテン語の書簡と、1431年の秋から1434年の夏にかけて行われた修道院視察の旅の記録『ホドエポリコンHodoeporicon』によって知ることができる。以下トラヴェルサーリの伝記的情報についてはスティンガー及び、P. Castelli, “Lux Italiae: Ambrogio Traversari, monaco ―153――153―
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