鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
168/604

⑮ 東魏北斉における「樹下思惟」像の図像学的研究研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程  王     姝はじめに中国の南北朝時代の東魏北斉は、534年に中国の北方を占拠した北魏が分裂した後、東半分を占有した。東魏北斉は北魏の崇仏の風習を引継ぎ、多くの仏像と石窟を造営した。中でも、都である鄴城は出土作例が最も多く、最も大きな影響力を持つ重要な仏教中心地と言える。そして、鄴城の仏像は部分的に北魏末の仏像様式を踏襲する一方で、新たな様式も存在した。さらに、一部の様式は南朝または西魏北周とも区別され、異なる由来があると考えられる。本論では中でも東魏北斉期の菩薩像の冠に着目し、その様式の由来や変化、意味などについて論じる。本論では、東魏北斉の都、鄴城における樹下思惟像の作例を取り上げ、宝冠と着衣形式に着目する。その様式の由来や変化、意味などについて論じ、さらにその形式に、朝鮮半島や日本を含めた東アジアの半跏思惟像への影響が見られることを指摘する。「樹下思惟」像とは、双樹の下で榻座に坐す半跏思惟形の像を指し、東魏北斉に多くの作例が見られる。これは「樹下観耕」、すなわち釈迦太子が樹木の下で衆生相食を見て、世の無常を悟ったことの意味を含む像として表現されている。また、2012年には河北省臨漳県北呉庄、いわゆる鄴城に当たる地域から東魏北斉期の仏像が多く発見された。この新出土資料を含め、鄴城周辺からこれまでに相当の件数の仏像が発見された。その中に「樹下思惟」像も多数出土しており、単体像だけでなく光背の背面に表された作例も多く見られる。例えば坐仏三尊像の背面には、双樹の下に三面宝冠を戴いてる半跏思惟像を表現している〔図1〕。また、光背の背面に馬を伴った半跏像が表現された像もあり、これは仏伝の「愛馬別離」の場面を表している。例えば、弄女造弥勒像〔図2〕のように像の背面に、絡みあう双樹が表され、その下に半跏像とその足を舐める馬、また侍従である車匿を表している。銘文によって南北朝時代の思惟像はほぼ釈迦太子像であり、さらに本論では形式に着目するため、このような「愛馬別離」を表す作例も、樹下思惟像と同類の像として扱う(注1)。鄴城の中心地の北呉庄での発掘結果を含め、東魏北斉の中心地において樹下思惟像は相当程度流行していた状況が推定される。さらに、特徴的なことにこの流行はこの時代に限られることから、そこには特有の宗教的・歴史的原因があると考えられ、東魏北斉の首都における仏教信仰の様相を解明する有用な資料になると考えられる。さ―158――158―

元のページ  ../index.html#168

このブックを見る