鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
17/604

注⑴高島北海 著、傅抱石 訳『写山要法』上海人民美術出版社、1957年、1頁。⑵美術史学者高階秀爾は1963年の『世紀末芸術』の注に「…このタカシマ(高島?)なる日本人がどのような人物であったか、筆者には詳しいことはわからない。どなたかお心当たりの方は御教示頂ければ幸せである」と書いた。ガラス工芸研究者の由水常雄によれば、彼は1968年頃プラハで、工芸史の師から初めて高島北海の名を聞いたという。高階秀爾『世紀末芸術』紀伊国屋書店、1963年、112頁。由水常雄「高島北海の人と作品」日本経済新聞社 編『高島北海画集』日本経済新聞社、1976年、3頁。た当時の中国や日本において、高島による皴法の新しい解釈は欠点ではなく、むしろ魅力的なものであっただろう。日中では欧文の用語の翻訳や解釈に微妙なズレがあり、さらに東洋の伝統と西洋の美術概念にもズレがあった。傅抱石はその混乱の中で、従来の説から解放されたということもできるかもしれない。この後、傅抱石の個人的な筆法である「抱石皴」の成立、および彼が社会主義リアリズムの代表画家になったことは、高島北海と深く関与していると推定される。以上の分析から、高島北海は皴法の理論を適切に把握はしていたものの、残された作品から見て、それはあくまでも西洋式技法の角度からの理解であった。前述の図版の置き換えからも分かるように、傅抱石は高島北海の皴法理解が自らのそれと同一ではないということを意識していなかった可能性が高い。単に自分の皴法認識に高い自信を持っていたことで、より適当と考えた図版を選んだものと考えられる。⑶金折裕司「高島北海と日本最初の広域地質図」『応用地質』第53巻第2期、2012年6月10日、89-97頁。長池敏弘「高島得三の生涯とその事跡(上)」『林業経済』第26巻第4号、1973年、26-36頁。⑷高島北海 著、傅抱石 訳『写山要法』上海人民美術出版社、1957年、1頁。⑸前掲書、1-2頁。⑹筆者の訳。前掲書、1頁。⑺筆者の訳。前掲書、2頁。⑻筆者の訳。前掲書、6頁。⑼高島北海『写山要訣』東洋堂、1903年、9-10頁。⑽高島北海『写山要訣』東洋堂、1903年、10頁。⑾王概等編、芥子園画伝.初集第2冊、共和書局、民国3年(1914年)。(「2023年3月1日」URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925991)書籍の保存状態により、ページ数が確認できないため、本論文ではオンライン閲覧のコマ番号で表記した。⑿『芥子園画伝 初集 巻之3』「諸家巒頭法」「李思訓」頁。⒀紅秋生「美術協会展覧会概観(2)」『美術新報[画報社版]』第6巻第14号、1907年11月6日、3頁。―7――7―

元のページ  ../index.html#17

このブックを見る