鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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固定化しやすいと考えられる。しかし、蕨手形放光はこうした伝統の表現を一切放棄し、それらの面影さえ残さない。その上この形式は数多くの作品に見られ、北斉に至ると熱狂的なほどに流行した。そのため、この表現形式は自律的展開で生じたものとは考えにくく、外部からの刺激を受けずに成立したとは考え難い。このように、中国古代以来重要な観念であった気の形象としての雲気文は、魏晋南北朝の墓葬や仏像に多く表現された。そのため、形態的に類似する蕨手形放光は、気を表現する文様から何がしかの影響を受けた可能性は考えられる。気はエネルギーであることから、気の文様は放光として使われることも可能だと考えられる。ただし、注意すべきは、雲気文は南北朝を通じて流行したため、蕨手形放光という表現形式が単なる気の文様からの発展形であるとしたら、東魏北斉以外の作例がごくわずかしかないという状況が説明できない。そのため、中国伝統の気状文様などのすでに存在する文様は、一定程度で形式上に蕨手形放光の創出を促したとも考えられるが、別の新たな刺激も受けて成立した可能性が高いと考えられる。そこで注目すべきことは、東魏北斉時代の貴族の墓葬の中には、明らかに西方から伝入された品物や、西方の様式に強く影響を受けたものが多く存在する。北斉婁叡墓(注6)で発見された黄緑釉陶磁灯〔図7〕は代表的な作品である。この陶磁灯の上部側面中央には、楕円形に連珠文が配され、その周りに蕨手形放光が表された貼り付け文様がある。これらの文様は東魏北斉の菩薩の冠、天蓋装飾などに見られる蕨手形放光に包まれた宝珠と形式が極めて近しく、対称な配置をとり規律的に配される点も共通する。さらにこの図像の下に連珠文を表現し、上に日輪と三日月が作られている。この陶磁灯に見られる文様は、ソグド人の宗教信仰に由来すると考えられる。またソグド人の宗教である教(注7)は光明や火を崇拝したことから考えると、陶磁灯の最も目立つ場所に配されたこの文様も教に由来する放光表現の可能性がある。つまり、この図像は蕨手形放光が火焔や光焔を表現すると考えられる。そしてこのような放光表現が、仏教図像へと転用されたと筆者は考える。そして注目すべきことは、蕨手形放光に包まれる宝珠は東魏、北斉、北周または隋のソグド人の石床に頻繁に現れ、墓主像の帷帳或や建築の軒の装飾として目立つ位置に飾られた。また、蕨手形放光は、東魏北斉、北周または隋のソグド人の石床のうち、約半数に表現されており、さらにほぼ全てのソグド人の墓で、教の火壇の聖火も蕨手形放光で表現された(注8)ことがわかる。つまり蕨手形放光の発生と伝播はソグド人と密接な関係があると考えられる。蕨手形放光は、六世紀後半のソグド人の墓の重要な位置に繰り返し表されたことからも、ソグド人と密接に関連する文様であるこ―161――161―

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