とは明らかであろう。しかし、これまでに発見されたソグド人関係の遺物から見ると、ソグド人の中心的な活動地域であった中央アジアではこのような表現は確認できない。ここで注目すべきことは、北魏にはソグド人が一定数居住していた。北魏分裂後の東半分を占有した東魏北斉においてもソグド人がかなり多く存在した。仏像を巧みに描くことで讃えられ、歴代画論に記述された北斉の画家曹仲達もソグド人であり、そして宮廷でもソグド人の姿は見られた。その中には寵臣も珍しくなく、胡楽など技芸を備える人が官職に任じられた事例も記されている(注9)。さらに軍事に影響を与え、政治の権力を与えられたソグド人も存在する。例えば、ソグド人安吐根は曽祖父から北魏に留まり、彼は柔然に出使し、そのまま柔然に滞留した。そして東魏に出使した時に、高歓に柔然の状況を密告し、戦局を左右した。その後北斉へ身を寄せ、涼州刺史、率義侯、さらに儀同三司まで封じられた(注10)。つまり、東魏北斉のソグド人は明らかに前代に比べて活躍し、この活躍は上層社会にも見られる。これらのソグド人は、すでに商業貿易のためシルクロードに往来する同郷とは異なる。彼らの祖父はすでに中国に進出したり、北魏や柔然などの政権に力を及ぼすことになった。商人から実権を握る上層官員に転身することは、東魏北斉のゾグト人において大きな意味がある。彼らはソグトの文化や芸術の伝播において重要な役割を果たしたと想定できる。しかし彼らは異国で育てられ、さらに異国で地位を手に入れた。そのため、彼らにとっては忠実に中央アジアの図像様式を反映する動機や必然性はないと考えられる。ソグド人において重要な葬俗さえ妥協した彼らにより作り出された図像は、伝統によって再創出したものが含まれると考えられる。すなわち、権力者になった彼らは、自己表現の欲求も湧いてきたと思われる。ここで注目すべきことに、薩保翟門生の石床(注11)の郭巨埋児を表した部分の右の場面では、郭巨が地面を掘り、金一缶が現れた情景を表現している。郭巨の孝行に感応するように場面の上方に天人が現れ、郭巨の妻は驚いて転倒している。一缶の金は天人の下、郭巨と妻の間、場面の中心に表されている。そして注目すべきことは、この重要な位置に配された天から賜った一缶の金は、蕨手形放光によって光を放つ表現がなされている。通常、北魏の墓葬において郭巨埋儿のこの場面の図様は定型化されており、金が放光する表現はほぼ見られない。ここでの表現は東京国立博物館が所蔵する孝堂山下石祠の丁蘭刻木奉親画像石が連想させられる。丁蘭刻木奉親において母の木像は気状の図様で表現された。これは木像が丁蘭の孝行に感応し、生命が生じたといういきさつに対して最も適切な表現であり、生命の誕生も気で表現される。つ―162――162―
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