まりここの郭巨埋児に見られる蕨手形放光は、光を放つ表現と気の表現が交わっていると考えられる。そのため、ソグド人の薩保である翟門生石床の郭巨埋儿の図像に生じた変化は注目に値する。つまり、本論で取り上げた蕨手形放光は、中国の伝統文様に基づき、東魏北斉のソグド人が再創造したものと考えられる。三 東魏北斉における鄴城の「樹下思惟」像と青州の関係性東魏北斉の仏像において、山東省の青州を中心にする様式も存在する。東魏北斉の青州は山東省の東北部から東南までの一部を占有し、北は莱州湾、その向こうには朝鮮半島がある。そのため、朝鮮半島との交流も盛んで、朝鮮半島の三国時代の造像に影響を与えたと見られる。青州の様式の起源は諸説があるが、鄴城で確認されるような白石の材質などの特徴は青州にはほぼ存在しない。そのため、東魏北斉の青州と鄴城は異なる様相をすることがわかる。さらに、青州では「樹下思惟」像の作例はほぼ見られないが、単体の半跏思惟像はわずかに存在する。ただし、これらの作例はほぼ北斉時代のものである上、多くの半跏像の頭部が損壊したため、宝冠様式は確認し難しい。この中で頭部が欠けてなく宝冠の様式が見られるのは、管見の限り青州市で発見された二つの北斉像に限られる。そしてこの二つの像の宝冠様式は明らかに東魏北斉の「樹下思惟」像とは異なり、鄴城からの影響は認められない。しかしその一方で、青州の菩薩像の宝冠様式にも鄴城の様式に影響を受けたと見られるものが出てくる。〔図8〕の像はその証拠の一例で、前述の蕨手形放光を表す冠が確認できる。つまり、青州は鄴城と異なった様式が存在する一方で、北斉になると、都である鄴城からの影響がだんだん強まったと推定できる。しかし、青州地域の半跏思惟像の下半身にまとう裙の衣文表現は鄴城との相似点が見出される。例えば半跏思惟像〔図9〕は、足首と膝の下で布がめくれ上がる。そしてこの像には二層の品字形の衣文が表現されている。このような表現は鄴城式の像に多く見られ、東魏頃から樹下思惟像に定着した。〔図10〕の東魏半跏思惟像は一例である。また、臨県で発見された上半身が損壊した北斉の思惟像の裙は外側と内側の二枚の布で構成されている〔図11〕。両足の上にかけている外側の裙には弓なりの衣褶線が表現され、先の〔図10〕と同じく、めくれ上がる部分を表現している。また、右足の下に垂れている外側の裙には弧を描くような衣褶線が現れ、下に現れた裏側の裙の端は波打つように何度か折り返されている。そして両足の間に垂れている部分の襞が―163――163―
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