鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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注⑴筆者の論文、「東魏・北斉時代の愛馬別離像及び樹下思惟像に見られる双樹について」は東魏・北斉の愛馬別離像と樹下思惟像に関して詳しく論じ、部分的に共通の性質を有することを述べた。(『早稲田大学文研紀要』第67輯、2022年、499~519頁。)らに菩薩像に大きな影響を与えた可能性が指摘できる。そして鄴城の像は青州地域にも影響を与えたため、鄴城の仏像の様式は山東半島から東アジアに伝播することが可能だと考えられる。終わりに本研究は、東魏北斉の鄴城の「樹下思惟」像に見られる宝冠や衣文の様式について分析した。そして、「樹下思惟」像を含め、東魏北斉の菩薩像の冠に極めて流行した蕨手形放光について考察した。そしてこの様式はソグド由来と考えられる。また、青州の様式は南朝からの影響が強いという従来の認識に対して、北斉に至ると鄴城からの影響も存在すると論じた。そして鄴城の様式は青州を経て、東アジア広域に影響を及ぼしたことが推察され、東アジアの半跏像の一部の様式の由来は東魏北斉の鄴城の「樹下思惟」像にあると述べた。⑵何立群「北斉龍樹背龕式造像的技術伝承和构図特徴」、『中原文物』2017年第4期、73~78頁。⑶趙声良「敦煌石窟北朝菩薩的頭冠」、『敦煌研究』2005年第3期、8~17頁。⑷西村実則「戴冠仏の起源─『華厳経』にみる冠─」、『仏教論叢』55号、2013年、183~189頁を参照。⑸『大正蔵』、佛駄跋陀羅『大方廣佛華嚴經』巻三、287頁a~b(筆者訓読)。⑹武平元年(570)に亡くなった。『北斉東安王婁叡墓』、文物出版社、2006年。⑺ササン朝の国教であったゾロアスター教、中国においては天を礼拝する行為を根拠として祆教と呼んだ。祆教はゾロアスター教とは異なり、中国で記録されたのは主としては祆教という論点が存在する。例えば張小貴氏の『中古華化祆教考述』(文物出版社、2010年)はこの論について詳しく論じた。⑻今まで発見された石制葬具の中ではソグド人に所属することが確信でき、時代が最も早いのは東魏翟門生石床であり、そして東魏謝氏馮僧暉石棺床はソグド人に関係する可能性が存在する。そして北斉に推定されたのは、MIHO石床、伝安陽石床、または青州武平四年(573)年石椁であり、さらにギメ東洋美術館の石床は北朝末に推定される。北周には天和六年(571)康業墓石床、大象元年(579)安伽墓石床、大象二年(580)史君墓石椁があり、隋は開皇九年(589)安備墓石床、開皇十二年(592)虞弘墓石椁、甘粛省天水に出土された隋唐時代の石床である。また、中国国家博物館に一つの北朝石椁が所蔵されるが、真偽が不明のため論じない。以上、十二点の石制葬具が挙げられ、そのうち五点は墓主像などの場面で蕨手形放光に包まれる宝珠が表現された。また、一部の石棺床底座で聖火が燃える火壇が表現されている。⑼『北史』卷九十二列傳第八十恩幸、斉諸宦者に「武平時有胡小児、…其曹僧奴、僧奴子妙達、―165――165―

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