⑯ 近世近代移行期の狩野派絵師の動向に関する基礎的研究研 究 者:静嘉堂文庫美術館 学芸員 浦 木 賢 治はじめに江戸時代、御用絵師として幕府や諸藩の後ろ盾を得ていた狩野派絵師は明治維新を迎え、職や地位を失いながらも新たな時代を生き抜いた。そのような狩野派絵師の動向に関する研究には、戦前では大村西崖「幕府の御絵師に就きて」(1916年)、平成期には狩野忠信(1864~?)による「明治維新以来狩野派沿革」(昭和8年原稿完成)にもとづき、明治初期に公職に就いた狩野派絵師とその所属機関を取り上げた佐藤道信氏の論考「狩野派の終焉」(1991年)がある(注1)。これらの研究により明治時代の狩野派絵師の就職先が示され、現在では各絵師の詳しい動向を探る段階にあると考える。近年では、山田久美子氏が東京藝術大学所蔵の「東京美術学校履歴書」を参照し、浜町狩野家に生まれ、後に東京美術学校、東京盲唖学校の教員となった狩野友信(1843~1912)の個人史を丁寧にまとめている(注2)。かつて筆者は、埼玉県立歴史と民俗の博物館で特別展「狩野派と橋本雅邦─そして、近代日本画へ」を企画し、埼玉県域に知行地を与えられた木挽町狩野家や関連する歴史資料、木挽町狩野派の門人にして明治時代の日本画を牽引する立場となった橋本雅邦(1835~1908)を取り上げ、江戸時代から明治時代に至る木挽町狩野派絵師の動静に注目した(注3)。明治4年(1871)、雅邦が兵部省海軍兵学寮(後の海軍省)に出仕したことなどを、防衛省防衛研究所(以下、「防衛研究所」と略す)が所蔵する行政文書「公文類纂」といった一次史料で提示した。また同展で紹介した、木挽町狩野派の知行地・樋ノ口村の組頭であった石塚家に宛てた同狩野派・第10代当主狩野雅信(1823~79)による「石塚弥五郎宛狩野雅信書状」(明治8年頃)には「万事困窮致居候。御憐察被下候」という言葉が記され、まさに没落した狩野派を象徴する書状と評価できた。本研究でも行政文書などの一次史料にあたり、近世近代移行期の狩野派絵師の動静を明らかにすることを目的とした。特に、今回は鍛冶橋狩野家当主・狩野探美(名は守貴、1840~93)を中心に調査検討をし、彼が海軍に従事し担っていた業務について詳述してみたい。明治初期の鍛冶橋狩野派・狩野探美の処遇について以前、筆者は明治初期の狩野派絵師の処遇についても報告しているが、そこでは木―170――170―
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