鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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挽町狩野派の狩野雅信、中橋狩野派の第15代当主狩野永悳(立信、1814~91)、浜町狩野派の第8代当主狩野董川(中信、1811~71)の3人を取り上げた(注4)。この3人はいずれも、新政府に帰順し、朝臣化幕臣となった人物である。旧幕臣の「朝臣化」は、徳川家がその希望者名簿を新政府に提出することで成立したのだが、その最終締め切りは明治元年9月25日であった。最終的に、「朝臣化幕臣」の人数は5000人程度になったといわれ、「太政類典」(1-164理財禄制3-5)の「行政官支配姓名簿」には、上記の狩野派絵師3人の名前を確認することができる。ただ、新政府に仕えたからといって豊かな生活が保障されたわけではなく、その困窮ぶりは先の雅信の書状の通りである。「行政官支配姓名簿」にその名前を確認出来ないことからわかる通り、狩野探美は徳川家に恭順を示し静岡藩士に属していた。後にも紹介するが、探美は明治3年(1870)5月7日に兵部省より海軍操練所製図生を申し付けられているが、そのことを示す行政文書「明治三年 公文類纂 三」(防衛研究所蔵)には「静岡藩 狩野探美」と記されている。では、静岡藩士・狩野守貴は実際に静岡藩へ移住したのだろうか。明治初期に静岡藩へ移住した徳川家家臣団を「駿藩各所分配姓名録」「駿藩名譜」「御入国人数町宿帳」「静岡士族名簿」などから洗い出し、静岡藩士の略歴をまとめた前田匡一郎氏による労作『駿遠へ移住した徳川家臣団』によれば、探美は、明治元年に移住し「三等勤番 安倍町山西屋文七方寄留」であったという(注5)。しかし、静岡藩での生活は長くは続かず、ほどなく東京に戻る。そのことを示す資料が東京都公文書館に保管されている重要文化財「東京府・東京市行政文書」に含まれる「旧幕府絵師狩野探美の朝臣採用方に付申入」である。これは明治2年の資料で、文面には「十一月廿一日」とある。この資料によると、東京に住んでいたが戸籍がない状態の探美を朝臣として戸籍に加えるべく東京府は弁官へお伺いをたてている。しかし、「期限後」を理由に、探美は朝臣には認められなかったようだ。海軍における狩野派の仕事について次に、明治時代、海軍の仕事に従事した狩野派絵師について見ていきたい。海軍と狩野派絵師の関係は、先学でも指摘され、筆者も先の「狩野派と橋本雅邦」展で取り上げた。その展覧会では、防衛研究所が所蔵する行政文書も展示し、兵部省(後の海軍省)に勤務した探美、御徒町狩野派の狩野応信(1842~1907)、深川水場狩野派の狩野昭信(勝玉)、橋本雅邦が海図製作に従事したことを紹介した。また、明治5年―171――171―

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