(1872)、雅邦が『航海教授書』の刊行に務め、褒美として当該書一冊を下賜されたこと、同年、昭信と雅邦を明治6年に開催されるウィーン万国博覧会へ派遣できるか、海軍省から海軍兵学寮へ問い合わせがあったが、多忙を理由に海軍兵学寮が断ったことを紹介した。このたびの調査研究では、狩野探美を中心に防衛研究所、海上保安庁が所蔵する当時の行政文書を改めて確認した。これらの史料を通覧すると、橋本雅邦よりもむしろ探美に関する記録が多く遺っていることに気づく。防衛研究所が所蔵する史料は、毎年作成される行政文書を項目別に分類し直し、保管した「公文備考」と呼ばれる文書群で、そのうちの「公文類纂」には海軍省創設から明治15年(1882)までを記録している。起案ごとに綴られた行政文書であるため、各絵師の動向をまとめるには、多くの起案から抽出する必要がある。一方、海上保安庁にも海軍省に関する歴史資料がまとまって保管されている。美術史学において、これまでほとんど紹介されていない資料群であるが、関東大震災で罹災したため失われた資料もあるという。現在保管されている資料はデジタル化が済んでおり、東京都江東区の海洋情報資料館内のPCで画像を閲覧することができ、その目録はHPに掲載されている。海上保安庁の資料の中には「履歴簿」(番号JSFF00079)を確認することができる。その表紙には「明治十四年六月改正/履歴簿/水路局」と太い字で墨書され、中には各職員の履歴が記録されている。ただ「明治十四年」とあるが、内容をみるとその後のことも記載されているので、「履歴簿」の制作年を明治14年とするわけにはいかないだろう。各人の履歴をみるに、明治8年秋頃までは統一されたきれいな字形で書かれているが、それ以後は項目ごとに異なる書体で書かれているため、本資料は明治8年秋頃に一度、清書され、順次加筆されていったものと考えられる。「履歴簿」の「人名索引」(目次)には、「狩野守貴」「狩野応信」「柳田龍雪」「松田儀平」「大後秀勝」らの名前を確認できるが、全ての履歴書が残っているわけではない。薩摩藩御用絵師であった柳田龍雪の履歴が把握できないことは残念だが(注6)、幸い「狩野守貴」「狩野応信」は見つけることができ、本稿巻末に「狩野守貴」の略歴を掲載した〔資料1〕。この「履歴簿」は探美・応信両者の海軍省等での業務に関する一次史料と評価でき、これまで漠然と「海軍省出仕」といわれてきたことを明解にしてくれる。さらに、この「履歴簿」に列記された内容は、防衛研究所の「公文類纂」で追認できる事項もあり、これらの行政文書は相互補完の関係にあるといえる。例えば、明治―172――172―
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