3年(1870)5月、探美が海軍操練所製図生となることは「履歴簿」には「同年五月七日/一海軍操練所製図生申付候事」と書かれ、一方、防衛研究所の「明治三年 公文類纂 三」(公文類纂M3-3-7)には「海軍操練所製図生申付候事/五月七日/兵部省」として「静岡藩/狩野探美」の名前が記される。この資料には「士族狩野勝川院家来/三浦治作」の名前も併記され、両者が同じ時に製図生となったことがわかる。この例は、「履歴簿」だけではわかりにくいこと、または記載されていないことが「公文類纂」に確認できる場合があることを示している。このようなことは逆も成り立ち、明治3年3月18日に探美は「海軍操練所出仕申付」(「履歴簿」)られたが、このことに関する書類は「公文類纂」に見当たらない。よって、狩野派絵師の海軍での業務内容、処遇を詳しく知りたい場合には、防衛研究所と海上保安庁の両方の行政文書を確認する必要がある。以下、海上保安庁の「履歴簿」から興味深い事例を取り上げてみたい。狩野探美の兵部省(後の海軍省)出仕は狩野派絵師による明治政府就職の例として最初期といえるもので、続いて狩野応信も明治4年12月に兵部省へ出仕するようになった。この2人はともに水路局に勤務し、イギリス船シルビアのベリー大尉から指導を受けていた大後秀勝から教育を受け、海図の製図に従事した(注7)。このことは、探美や応信の名前を、明治初期に刊行された海図に見つけられることからもうかがえる。海図製作にあたり、探美も応信も艦船に乗り込み、大海に出ることもあったようだ。探美は、明治5年4月に申し付けられ、測量艦に乗船し、鹿児島周辺の海域の測量・製図に従事した。「履歴簿」には出張を命ぜられた日付と、翌年に帰京したことが列記されているが、「公文類纂」には当地で月給を支払うための文書が残るのみで、この間のことは判然としない。ただ、明治7年に刊行された「薩隅内海之図」〔図1〕「薩摩国山川港之図」(いずれも明治5年測量)には「狩野守貴」の名前を見つけることができる。この他、「武蔵国横浜湾」(明治6年測量、明治7年刊行)にも探美の名前が海図に記載されている。応信が測量艦に乗り込み従事した例として、「履歴簿」の明治5年5月7日、木更津方面の測量出張を申し付けられたことが挙げられる。関連の資料を「公文類纂」に探すと、いくつか見つけることができ、「公文類纂」(M5-21-93)に詳しい内容をみることができる。それによれば、この出張は明治5年6月1日午前6時前、芝大門前から乗船し、同日午後4時過ぎに木更津に上陸したという。その後、6月22日に東京に戻るまで「海上出張」「陸地出張」「御用滞在」を繰り返したことを記録している。―173――173―
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