この測量は、東京湾を測量した初めての例で、浄写図は天覧に供されたという(注8)。この測量と関係していると思われる「武蔵国東京海湾図」(明治5年測量、明治6年刊行)には「狩野応信摸図」の記載を確認できる。この他、応信が携わった海図には「大琉球那覇港之図」(明治6年測量、明治7年刊行)、「大隅国口永良部島港図・大隅国屋久島一湊之図」(明治6年測量、明治7年刊行)、「樺太国楠渓海岸図」(明治6年測量、明治7年刊行)などがあり、海図の中に応信の名前を見つけることができる。興味深い例として紹介しておきたいことは、水路寮の業務の一環として、狩野探美が写真撮影に従事していたことである。「履歴簿」には、明治9年(1876)4月6日、「製図課之内写真掛兼務申付候事/水路寮」と記されており、製図と写真の係を兼務していたことがわかる。この頃、イギリスの測量艦は対景図等のために写真機を利用しており、水路寮も写真を使用すべく、明治8年に主船寮から写真機を譲り受けたが、上手くはいかなかったようだ。そこで翌明治9年3月に石川造船所から大型写真機を譲り受け、それを探美が用いることになった(注9)。その写真機を用いた最初の出張と考えられるのが、伊豆・天城山で行われた「艦材」の撮影である。探美の「履歴簿」には、明治9年12月4日条に「艦材写真ノ為メ豆州天城山出張申附候事/海軍省」と書かれており、探美は写真撮影のため天城山へ出向いたことがわかる。これは狩野派絵師が写真撮影を行った最初の例ではないだろうか。「艦材」とは造船に用いる木材のことで、この頃、日本でようやく艦船を造船できるようになり、その木材は天城山中から供給されていた。最初に造船された艦船は二等砲艦「清輝」(木造艦船)で、明治6年に計画が始まり、明治6年11月20日に起工、明治8年3月5日進水、明治9年6月21日に竣工となった。その次が二等砲艦「天城」(木造艦船)で、明治8年に計画が始まり、明治9年9月9日に起工、明治10年3月13日進水、明治11年4月4日に竣工した。ちょうど「天城」造船中に、探美は艦材の写真を撮影するため、天城山へ出張したことになる。関連する資料を防衛研究所に探すと、探美とともに吉田重親海軍中尉が天城山へ艦材写真撮影のために出張していることがわかり、「公文備考」(M9-33-33)に両名の出張届が記録されている。探美にかかる行政文書を引用すると火第四十六号 拾等出仕狩野守貴豆州天城山ヘ出張御届―174――174―
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