拾等出仕 狩野守貴右者今般艦材写真之為メ豆州天城山ヘ出張被申付候ニ付本日出発致候条此段御届仕候也 水路局長 九年十二月四日 海軍大佐 柳楢悦 海軍大輔川村純義代理 海軍少将中牟田倉之助殿と書かれている。ここに「本日出発致候」とある通り、探美は12月4日に出発した。この2人の戻りは、「公文備考」(M9-34-34)に収められた帰京届から、ともに12月18日であったことが判明する。さらに興味を引くのが、この時に撮影した写真が天覧に供されることを企図し、皇室に届けられたことである。「公文備考」(M9-16-16)に収められた「内省天城山艦材伐木の写真差出」を見ると、探美が帰京した10日後の12月28日に「艦材伐木之実景」を写した写真14枚が、川村純義海軍大輔から徳大寺実則宮内卿に届けられたことがわかる。以下に引用しておきたい。豆州天城山ニ於テ艦材伐木之実景先般当省水路局ニ於為致写真候ニ付都合十四枚差上候間天覧相成候様御取計有之度此段添テ申進候也 明治九年十二月廿八日 海軍大輔川村純義 宮内卿徳大寺実則殿この時に献上された14枚が、宮内庁書陵部図書寮文庫に所蔵されているアルバル『各種写真(第6号)』に収められた写真14枚に該当すると思われる。当該アルバムの表紙には「各地勝景写真帖」と墨書された題箋がつき、アルバムを開くと冒頭に「天城山伐木十四枚続」の小札が付いた写真を見つけることができる。写真は鶏卵紙と思われ、山々や田畑、小川をバックに洋装と和装の男4人が立っている一枚〔図2〕や、同じ男4人が並び立つ写真〔図3〕、伐採した木材と木樵の様子〔図4〕、多数の木樵の集合写真などが収められている〔図5、6〕。本稿の紙数に限りがあり、14枚の写真全てを掲載することはできないが、写真はほぼ同寸で縦約28cm、横約34cmである。―175――175―
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