鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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『各種写真(第6号)』には写真とともに貼られた題箋以外に文字情報はなく、「天城山伐木十四枚続」の後には「習学院御茶屋其一」「長崎新大前軍団病院写真」「米国百年博覧会写真七葉之内」「上野教育博物館十二枚」などの写真が続くことから、献上された写真を適宜収録したアルバムといえるだろう。さらに明治10年の「公文類纂」(M10-7-227)の「写真技術加俸被下度件水路局上申」(明治10年6月8日付)を見てみると、探美と吉田の二人は、明治9年の春(先述の通り、「履歴簿」には明治9年4月6日に当該記述がある)から自費で写真撮影の「修行」をし、「旧臘以来天城山并ニ鹿児嶋共両度迄御用被仰付」つまり、昨年12月以来、天城山と鹿児島へ写真撮影の出張をしていたことがわかる。当該文書では、そのような二人を思ってか、柳楢悦海軍大佐(水路局長)が「加俸」を上申するも、聞き入れられなかったようだ。いずれにせよ「天城山伐木十四枚続」は業務のために撮った写真とはいえ、鍛冶橋狩野派の当主であった狩野探美が海軍省水路寮時代に撮影した貴重な写真である。狩野派絵師が撮影した写真ということ自体、稀少な例といわざるをえない。「天城山伐木十四枚続」は、芸術性に富むものとはいえないが、明治9年という狩野派絵師が本来の画技を披露できずに苦労をした時期に、狩野探美が自ら写真技術を学び、実践していたという歴史的事実を視覚的に示している。防衛研究所が所蔵する行政文書により、探美が天城山を撮影した時期、海軍から皇室へ献上された日にちも把握することができ、現在、その写真が宮内庁書陵部に所蔵されているいきさつも明らかである。「天城山伐木十四枚続」は、明治時代初期、自費で写真技術を学んだ狩野派絵師による類稀な写真なのである。以上、防衛研究所や海上保安庁が所蔵する行政文書を中心に、近世近代移行期の狩野派絵師の動静について確認した。幕末から明治時代という政治体制が変わり、西洋文化が流入すると、それまで幕府や諸藩の後ろ盾を得ていた狩野派絵師は衰退し、本業で生計を立てられない状況になった。すると狩野派絵師は明治政府に出仕するなど、各々仕事を探し、新たな時代に順応していく。今回の調査では、その辛酸を嘗めた時期の狩野派絵師の動向の一端を明らかにすることができた。ただ、今回取り上げた資料は海軍省に関する行政文書の一部であり、まだまだ調査検討すべき事項はある。また、海軍だけでなく陸軍などに従事する絵師もおり、それらの動静の解明も今後の課題である。明治10年代には、「観古美術会」が開催されるなど伝統的な日本東洋美術が再評価される機運が生まれた。その美術史的動向と狩野派絵師の関わりにつ―176――176―

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