⑱ 中国南北朝隋唐時代における仏僧の墓塔と肖像に関する研究─宝誌の場合─研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程 稲 葉 秀 朗はじめに南北朝隋唐時代の中国では、しばしば物故した仏教の出家者の墓塔にその肖像が安置された事例がみられ、報告者はこれを「遺影をともなう墓塔」と称している。僧伝をはじめとする各種文献史料によれば、当該時期に亡僧のために建立された墓塔の例は枚挙に暇がない。仏僧の肖像制作も画像か立体像か、像主の生前か死後かを問わず盛行していたことが知られる。こうしたなか、仏僧の遺影をともなう墓塔や、塔内に安置された肖像の事例を検討することで、中国仏教における出家者の墓葬観および死生観と美術造形、こと肖像制作との関係を明らかにできるのではないかと考える。報告者は遺影をともなう墓塔の様相を知り得る遺構として河南省安陽市の霊泉寺塔林に現存する、隋唐時代の仏僧や在家信徒の墓塔として開鑿された摩崖龕に注目すると共に(注1)、南北朝隋唐時代における遺影をともなう墓塔の事例を収集し、こうした営為の始原が中国においていつ頃まで遡り得るかを検討した。結果、東晋末期に荊州江陵で成立したとされる『目連問戒律中五百軽重事』(注2)問比丘死亡事品の記述を根拠として、中国における遺影をともなう墓塔の建立は5世紀初頭まで遡り得ると共に、敦煌莫高窟第257窟後室南壁の沙弥守戒自殺因縁図(北魏、5世紀後半)に描かれた塔は、遺影をともなう墓塔の様相を絵画化した早期の作例である可能性が高いとの知見を得た。以上の詳細は別稿で論じる予定だが、報告者はこの過程で南朝梁の神異僧として知られる宝誌(418~513)の墓塔にもその肖像が安置されていたことを知った。文献史料による限り、遅くとも唐末から呉(十国)にかけての10世紀前半時点で宝誌の肖像が安置された墓塔が存在していたとみられ、北宋の太宗は塔内の宝誌像を開封の啓聖禅院に遷座した。従来あまり注目されていないが、こうした宝誌の事例は墓塔に安置された仏僧の肖像の流転が知られる点、仏僧の墓所に付随する肖像に対する信仰のありかたをうかがえる点で看過できない。また、近年議論が活発な宝誌像の研究にも僅かながら資するところがあると思われるため、以下に報告したい。―192――192―
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