1 宝誌の遷化と墓塔および開善寺の建立『高僧伝』巻10保誌伝によれば、宝誌は梁・天監13年(514)に遷化し、武帝(在位502~549)によって手厚い葬儀が営まれたのち、建康城東北の鍾山独龍阜に埋葬された。のちにその墓所に建立されたのが開善精舎(開善寺)であるという。後代の文献には、宝誌の墓所に墓塔が建てられたことを記すものがある。北宋晩期の覚範恵洪(1071~1128)による『石門文字禅』巻30鍾山道林真覚大師(宝誌)伝は、牧田諦亮氏によれば当時の最も整った宝誌説話の典型であるが(注3)、開善寺の創建経緯について次のようにある。帝昔与公登鍾山之定林、指前岡独龍阜曰、此為陰宅則永其後。帝曰、誰当得之。公曰、先行者。至是念公以此言、以金二十万易其地、以葬焉。皇女永康公主薨、尽施其妝奩、建浮図五層於其上置以無価宝珠、仍建開善精舎。(注4)宝誌が生前、梁武帝に独龍阜を自らの「陰宅(墓)」とするよう述べたため、武帝はそれに従って金二十万をもって当地を整備し、宝誌を葬った。さらに、その墓所には武帝の皇女である永康公主が薨じた後、彼女の化粧箱が寄進されて五層の墓塔が建ち、これが開善寺の前身になったという。なお、南宋に成立した『六朝事迹編類』巻11蒋山太平興国禅寺(開善寺)条や『景定建康志』巻46蒋山太平興国禅寺条は「永定公主」なる人物が宝誌の遺体を湯沐させ、墓塔を建立したとする異説を伝えるが、その名は史書にみえない。いずれにせよ、開善寺の前身となった宝誌の墓所には併せて墓塔も建立されたと伝えられ、この墓塔は次章で述べるとおり遅くとも10世紀前半時点には存在していた。ただし、その建立経緯にまつわる史料が見出せるのは宋代以降であるため、宝誌の墓塔が実際に梁代に建立されたとは断定できない。2 墓塔に安置された宝誌像さて、南宋の陸游(1125~1210)による紀行文、『入蜀記』巻2(『渭南文集』巻44所収)乾道6年(1170)7月8日条によれば、当時太平興国禅寺(開善寺)の宝誌の墓塔には金銅の宝誌像が安置されていた。八日。晨、至鍾山道林真覚大師塔焚香。塔在太平興国寺上、宝公所葬也。塔中金銅宝公像、有銘在其膺、蓋王文公守金陵時所作。僧言、古像取入東都啓聖院、祖―193――193―
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