鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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宗時毎有祈祷、啓聖及此塔皆設道場、考之信然。(注5)陸游は太平興国禅寺で宝誌の墓塔を礼拝した際、塔の内部に安置された宝誌像を実見しており、それは胸部に王安石(1021~1086)のものと思しき銘文をともなう金銅像であった。さらに、寺僧によればこの金銅宝誌像は新造されたもので、かつて塔内に安置されていた古像は開封の「啓聖院」へ遷座され、たびたび祈祷されていたという(以下、古像を啓聖院像、新造された金銅像を塔内新像と称する)。啓聖院とは北宋の太宗(在位976~997)が太平興国5年(980)、開封の自身の生誕地に建立した啓聖禅院を指す(注6)。『仏祖統紀』巻43太平興国5年(980)5月条や『宋太宗実録』巻33雍熙2年(985)4月条によれば、啓聖禅院には清凉寺釈迦如来立像の原像となった旃檀瑞像や、初唐の道宣(596~667)が感得した仏牙舎利などと共に、太宗が江南平定にともなって得た宝誌像と、宝誌生前の特徴的持物とされる錫杖、刀、尺が安置されたという。また、『参天台五臺山記』第4によれば、成尋(1011~1081)は北宋の熙寧5年(1072)10月27日に開封の太平興国寺七客院にて「志公和尚等身像」を拝しているが、これも啓聖院像をある時期に開封太平興国寺へ遷したものとみられる。宝誌の墓塔の沿革が定かでないため、塔内へ最初に宝誌像が安置された時期の上限も不明だが、その下限については吳淑(947~1002)撰『江淮異人録』巻下、銭処士の次の話が参照される。嘗有人図銭之状、銭見之曰、吾反不若此、常対聖人也。人不悟。後有僧取其図置於志公塔中、人以為応。後烈祖取之入宮、陳之於内寝焉。(注7)かつてある人が銭処士なるものの肖像画を描いたところ、本人はこれを見て「自分はこのようなものではない。常に聖人と対面している」と言った。この人はその意味がわからなかったが、後にある僧がこの肖像画を宝誌の塔中へ安置したので、その意を得たという話である。宝誌の墓塔の中へ銭処士の肖像画が安置されたことで聖人と対峙する状態になったのだから、この頃には宝誌の墓塔に宝誌像が安置されていたのだろう。後に南唐の烈祖(在位937~943)が銭処士の肖像画を得たといい、本話の冒頭には銭処士が唐末から呉(十国)にかけての天祐年間末期に江淮に遊び金陵(建康)に留まったという記述もある。よって、宝誌の遺影をともなう墓塔は遅くとも10世紀前半―194――194―

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