時点で存在していたことになる。時期的にみて、『江淮異人録』にいう宝誌像は啓聖院像と同一像と思われる。3 啓聖院像の実態ここで、北宋初期の時点まで宝誌の墓塔に安置されていた啓聖院像がどのような像であったかを考えてみたい。『仏祖統紀』や『宋太宗実録』は啓聖院像を宝誌の「真身」と称しており、塚本麿充氏はこれを宝誌の遺体を用いて制作された肉身像と推測している(注8)。確かに、高僧の遺体そのもの、あるいは遺体や遺骨を用いて制作された肖像(肉身像)を「真身」と称する例は多い。しかし、宝誌の遺体が肉身像としてまつられたことを明記する史料は見当たらない。むしろ、明の董穀による『碧里雑存』宝志公は、明初に宝誌の遺体が発見されたとする話を伝える。詢於故老告余曰、今之孝陵、即誌公之瘞所也。瘞榜原有八功德水、泉脈甘美。誠意伯奏改葬之、乃見二大缶対合。啓之、端坐於內、髮被体、指繞腰矣。瘞既遷、而水亦隨往。聖祖異焉、敕建霊谷寺、賜之庄田甚広、仍迎其像以帰、建塔居之。命太常歲祭、行搢笏之礼焉。(注9)これは明の洪武帝(在位1368~1398)が鍾山に寿陵として孝陵を築くにあたり、当地にあった宝誌の墓所を遷すことになり、そのとき宝誌の遺体が発見されたという古老の話を記したものである。大きな缶を2つ合わせた中に宝誌の遺体が端坐しており、髪は身体を覆い、指(この場合は爪か)は腰をめぐるほどに伸びていたという描写は何とも生々しい。本話の真偽は定かでないが、それが創作であったとしても、宝誌の遺体が肉身像とされたのであればこうした話は生じてこないはずである。よって、やはり宝誌の「真身」と称された啓聖院像が肉身像だったとは考え難い。このとき宝誌を改葬した地には霊谷寺が勅建され、新たに墓塔も建立された。そこには陸游が実見した塔内新像との異同は不明ながら、やはり宝誌像が安置されたという。霊谷寺は現在の南京市玄武区紫金山の南麓に位置するが、明代の宝誌塔は現存しない。一方、啓聖院像の実態をうかがえる記述が、南宋・景定2年(1261)成立の地理書である周応合撰『景定建康志』巻46蒋山太平興国禅寺条の割注に見出せる。―195――195―
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