宝公旧像、父老相伝以沈香為之。国初取帰京師。陳軒金陵集載狄咸游蒋山詩云、旃檀帰象魏、窣堵臥烟霞、蓋謂此也。(注10)前掲『入蜀記』の内容を踏まえれば、ここにいう京師開封へ遷された宝誌の「旧像」がそれまで墓塔に安置されていた啓聖院像を指すことは明らかである。そして、当時の父老の言によれば啓聖院像は「沈香」、つまり香木を用材とした木彫像だったという。北宋晩期の人である狄咸の「游蒋山詩」(注11)は前後の文脈が不明ながら、「旃檀〔の像〕は象魏(宮城の門)へ帰し、窣堵(墓塔)は烟霞を横たえている」として、旃檀の像が開封へ遷ったことで宝誌の墓塔に安置されていた像が失われたことを詠んだらしく、本像が旃檀像だったことが示唆される。もっとも、成尋は啓聖院像と同一像と思しき志公和尚等身像について「痩黒。比丘形。著見紫袈裟衫裙。挙袖見手。骨露現痩(注12)」と記しているから、比丘形の宝誌像の表面には漆を塗るなどして何らかの仕上げが施されていた可能性が高い。また、骨が浮き出るほどに痩せていたという様相は本像の写実性に富む造形表現をうかがわせる。本像がまとっていたという「紫袈裟衫裙」が実際に縫製された布の僧衣であったとすれば本像はいわゆる裸形着装像であったかもしれず(注13)、こうした生身性やあたかも肉身像を志向するかのような本像の特徴は、啓聖院像が宝誌の「真身」と称されたこととも関係があるように思われる。現在知られている宝誌像の像容には、大別して京都市の西往寺が蔵する木造宝誌立像のような「指で面部を裂いて中から宝誌の真の姿であるところの十二面ないし十一面観音菩薩の姿をあらわした」という説話の一場面を典拠とするものと、四川地域に現存する唐宋代の摩崖造像にみられるような、剪刀、鏡、絹帛などの道具類を提げた錫杖を執る比丘の姿(祖師形)の二系統があり、それぞれに画像と立体像による現存作例が確認されている。これまでみてきた墓塔に安置された宝誌像に関する限り、その像容に宝誌を十一面観音菩薩の化身とみなす信仰との関連性をうかがわせる史料は認められない。啓聖院像については『仏祖統紀』巻43太平興国5年5月条に、本像が啓聖禅院に錫杖、刀、尺と共に安置されたと述べられており、このことから神野祐太氏は本像が祖師形であった可能性が極めて高いとみているが(注14)、報告者もこれに同意する。4 墓塔に安置された宝誌像の意義以上より、開善寺の前身である宝誌の墓所には墓塔が建立されており、遅くとも10―196――196―
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