世紀前半時点で内部に宝誌像が安置されていたことが知られた。この宝誌像(啓聖院像)は旃檀による木彫像とみられ、北宋初期に開封の啓聖禅院へ遷されて宝誌の「真身」と称されると共に、原所在であった開善寺の墓塔には新造された宝誌の金銅像(塔内新像)が安置されたのであった。では、墓塔における宝誌像の安置はいつ頃まで遡り得るのだろうか。利用できる史料には限りがあるものの、冒頭に挙げた5世紀初頭時点の中国で遺影をともなう墓塔が存在し得たという知見を踏まえるなら、宝誌の遷化後に墓塔が建立され、そこへ宝誌像が安置されたとしてもおかしくはない。塔内に安置された宝誌像自体は幾度かの転変を経たかもしれないが、啓聖院像の遷座にともなって塔内には新たに金銅像(塔内新像)が安置され、明初の霊谷寺への改葬を経てもなお墓塔に宝誌像が安置されたことは「墓塔における宝誌像の安置」という伝統が自覚的に継承された結果といえ、その淵源は宝誌の遷化直後にまで遡り得るのである。近年では中国における宝誌像の展開と日本への伝播過程、特に『延暦僧録』巻5戒明伝に記される、唐・大暦年間(766~779)後半に入唐した戒明が「志公宅」で礼拝し、これを写して大安寺へ請来したという「志公十一面観世音菩薩真身」の像容や形態がいかなるものであったかをめぐり活発な議論がなされている(注15)。本稿では宝誌の墓塔にその肖像が安置されたという事象に注目したため敢えてこうした問題に立ち入らなかったが、『高僧伝』保誌伝が「伝其遺像処処存焉(注16)」と記すとおり、梁代以降には多数の宝誌像が制作され、伝存していたことがうかがえる。そうしたなかにあって、特に太宗が開封へ迎え、さらに「真身」と称されたほどの宝誌像(啓聖院像)の原所在がその墓塔であったことの意味は大きい。そもそも、宋朝における宝誌信仰の隆盛は、宝誌に仮託された宋の興起を予言する讖記や、宋の治世を正当化する祥瑞の出現と表裏一体をなすものであったことが指摘されている(注17)。北宋初期に啓聖禅院に安置された宝誌像(啓聖院像)は、宝誌を通じた一連の治国政策の中心的かつ最も象徴的な存在に位置付けられたはずだが、数ある宝誌像の中で、当初は墓塔に安置されていた本像が最も正当な宝誌像とみなされたのである。このとき、『石門文字禅』道林真覚大師伝にみえる、梁武帝と宝誌にまつわる以下の話が想起される。帝偶与公臨流縦望、有物泝流而上、公挙杖引之、隨杖而至、蓋紫栴檀也。詔供奉官紹彫公像、頃刻而肖、神情如生。帝大悦、命置内庭、為子孫世世福田。(注18)―197――197―
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