鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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あるとき武帝と宝誌が共に長江を望んでいたところ、遡流してくる物体があったため宝誌が杖で引き上げたところ、それは紫栴檀であった。そこで、武帝は供奉官の紹に宝誌の像を刻ませたところ、表情はよく似ており、あたかも生きているかのようだったので、武帝は喜んでこれを内庭(おそらくは宮中)に安置したという。宝誌の肖像制作にまつわるこの逸話の成立年代は不明だが、本話は梁代の画の名手である張僧繇ですら宝誌の肖像を描くことができなかったという話の後日談として記されている。よって、本話の趣旨は張僧繇ですら描けなかった生前の宝誌の姿を忠実に写した彫像を制作し得たことを述べる点にあったとも解せる。栴檀を用いて制作され、生きているかのようであったという宝誌像は、啓聖院像の様相とも相通じる。よって、本話はある時期に宝誌の墓塔に安置されていた宝誌像に付会された縁起であり、宝誌が自ら入手し、触れた栴檀を用いて制作されたことや、その生前の姿を生けるがごとく写したものであるとすることで、宝誌像と宝誌自身の因縁や、像の聖性ないし正当性を主張しようとする企図があったともみなせるのではないか(注19)。おわりに本稿では宝誌の遺影をともなう墓塔に関する検討を通じて、実際の制作や伝来の経緯は措くにせよ、墓塔に安置されていた肖像が後代においても一定の正当性ないしある種の権威を持ち得たという事例を示した。啓聖院像が重視された理由については、墓塔に安置された肖像そのものの存在意義という点から、さらなる検討の余地を有する。また、神野氏は戒明が宝誌像を実見したという「志公宅」を、「宅」に墓所の意味があることから開善寺とみる(注20)。しかし、「志公宅」が宝誌の墓所とすれば、それはより直接的に宝誌の墓塔を指していた可能性もある。現時点で宝誌塔の建立が梁代まで遡る明確な証左がないことは先述のとおりだが、場合によっては戒明が礼拝した宝誌像も墓塔に安置されていたのではないか。ただ、そうなるとやはり「十一面観世音菩薩真身」と称された宝誌像の像容がいかなるものであったかという問題は避けて通れない。ついては戒明礼拝像と啓聖院像の異同や「真身」という謂称の意味、現存作例との比較なども踏まえて検討すべきであるが、これらについては稿を改めて論じたい。―198――198―

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