注⑴拙稿「安陽霊泉寺塔林における「凭几をともなう仏僧像」の意義」(『早稲田大学大学院文学研究科研究紀要』第66輯、2021年)、同「安陽霊泉寺塔林の墓塔龕にあらわされた仏僧の遺影の考察」(『早稲田大学大学院文学研究科研究紀要』第67輯、2022年)。⑵同経の成立経緯や内容については船山徹「『目連問戒律中五百軽重事』の原形と変遷」(『東方學報(京都)』第70冊、1998年)を参照。⑶牧田諦亮「宝誌和尚伝攷」『中国仏教史研究第二』第3章乙篇、大東出版社、1984年、71頁。初出1956年)。⑷張伯偉ほか点校『注石門文字禅』下冊(中華書局、2012年、1700頁)。⑸銭錫生ほか校注『陸游全集校注』11(浙江教育出版社、2011年、44頁)。⑹啓聖禅院については塚本麿充「啓聖禅院の構成とその意味」(『北宋絵画史の成立』第2章第3節、中央公論美術出版、2016年。初出2011年)を参照。⑺孔一校点『清異録江淮異人録』(上海古籍出版社、2012年、134頁)。⑻前掲塚本氏文献187頁。⑼『説郛三種』9(上海古籍出版社、1988年、723頁)。⑽王暁波ほか点校『宋元珍稀地方志叢刊甲編』3(四川大学出版社、2007年、1907頁)。なお、徳護氏は付注箇所引用部分を含むこの割注の内容が明代の『金陵梵刹志』巻3に劉岑(1087~1167)の「蒋山大仏殿記」として引用されていること、そこに劉岑没後の淳熙16年(1189)以降の記事が含まれていることをもってその信憑性はあまり高くないとする(「北宋代における宝誌伝の受容─『石門文字禅』に見る覚範恵洪撰の宝誌伝を中心として─」『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第51号、2018年、80~81頁)。しかし、本稿のとおりその内容はすでに南宋の『景定建康志』にみえる。よって、付注箇所の引用部分は撰者の周応合による考証の一部であり、『金陵梵刹志』がその内容を誤って全て「蒋山大仏殿記」として引用したとみるべきであろう。⑾本詩を載せるという陳軒『金陵集』は伝わらないが、『景定建康志』の他所でしばしば引用されるほか、南宋・紹興30年(1160)成立の『六朝事迹編類』巻下半山報寧禅寺条や葛立方(?~1165)撰『韻語陽秋』巻5においても言及されているため、その実在は認めてよい。⑿『大日本仏教全書』第115冊(仏書刊行会、1980年、79頁)。⒀裸形着装像については奥健夫「裸形着装像の成立」(『仏教彫像の制作と受容─平安時代を中心に─』第2章2、中央公論美術出版、2019年。初出2004年)、根立研介「遼墓出土の裸形着装木偶をめぐって」(『日本中世肖像彫刻史研究』第1部第2章、中央公論美術出版、2022年。初出2021年)を参照。⒁神野祐太「大安寺戒明請来の宝誌和尚像について」(津田徹英編『仏教美術論集6組織論─制作した人々』竹林舎、2016年、18頁)。⒂松本信道「宝誌像の日本伝播(一)─大安寺を中心として─」(『駒澤大学文学部研究紀要』第64号、2006年)、同「宝誌像の日本伝播(二)─天台入唐・入宋僧を中心として─」(『駒澤大学文学部研究紀要』第65号、2007年)、前掲注⒁神野氏論文、西本昌弘「大安寺僧戒明が請来した唐代の宝誌像」(『関西大学東西学術研究所紀要』第53輯、2020年)、野村卓美「釈戒明請来「志公十一面観世音菩薩真身」像」(『文藝論叢』第96号、2021年)、同「釈戒明請来「志公十一面観世音菩薩真身」像画像説の考察」(『文藝論叢』第97号2021年)、長井里緒奈「中国、日本における宝誌像と西往寺木造宝誌立像」(『美術史研究』第60冊、2022年)など。―199――199―
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