ヘンリー・マイヤー=ハルティンクのように、「聖母マリアと、キリストの墓を復活後に訪れた三人のマリアたち」とする解釈という主に二つの説に分かれている(注6)。これに対して、本論ではとくにマイヤー・ハルティンクによる、一人目の女性が聖母マリアであるという解釈に着目したい。ハルティンクは、このエクレシアから聖杯を受け取る女性がキリストの贖罪による救済の効果を最初に経験した聖母マリアであることは疑いの余地がないとし、そのうえで「もしもエクレシアの隣にいる女性が実際に聖母マリアであるとすれば、この事実は意義をもつものである」と、重要な問題を提起している。『雅歌』註解において聖母マリアを花嫁とする解釈は、12世紀のドイツのルペルトゥス(1075年頃-1129年)の登場以降に盛んになり、その後人気を博して主流となったという経緯があるが、本作が制作された1000年頃にすでに聖母マリアが花嫁の代表として写本の挿絵に現れていたことが驚くべき事実であるからである。ハルティンクは、花嫁として解釈されていた教会の女性擬人像エクレシアの原型として、聖母マリアがエクレシアと並んで描かれた、〈ミンデンのシゲベルトの典礼書〉(1024年頃-30年、ベルリン国立図書館所蔵、MS theol. lat. fol. 9r)などの写本挿絵の作例を挙げ、その背景についての説明を試みている(注7)。花婿キリストに向かうエクレシアに続く女性群像のうち、最も先端に位置し聖杯を受け取る女性について、ハイドルン・シュタインも聖母マリアであると解釈したが、その根拠には「処女たちの中の処女(virgo inter virgines)」という聖母マリアの花嫁としての特性が強調されていることを挙げている(注8)。聖母マリア美術研究の第一人者であるティモシー・バードンが2005年に分析しているように、とくに『雅歌』を典拠とした聖母マリアが天上の花嫁として戴冠される「聖母戴冠」図像の先駆けとして、〈ハインリヒ2世の典礼用福音書〉挿絵(バイエルン州立図書館所蔵 Clm. 4452、1007年-1012年頃、fol. 2r)〔図5〕など、バンベルク大聖堂の寄進者であった皇帝ハインリヒ2世の妻、皇妃クニグンデ(975年-1040年)が聖母マリアに倣って処女と花嫁としての特性をもちながら戴冠される図像も存在し、これはすでに聖母マリアの祝祭に関わる典礼において、聖母マリアが花嫁として解釈されていた傾向を反映しているという。聖母マリアの祝祭─聖母の生誕、聖母被昇天祭、聖母の清め─における典礼では、早くも7世紀までに『雅歌』が使用されるようになったという背景がある(注9)。しかしながら、本作〈バンベルク雅歌註解〉ではハルティンクの指摘のように、花嫁神秘主義の主要原典である『雅歌』への註解書の挿絵において、明確に花嫁としての性格が前面に押し出された表現がなされているのである。よって、ここで検討すべきは以下の問題であるだろう。つまり、1000年―203――203―
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