頃の『雅歌』註解の写本挿絵に聖母マリアが「処女の中の処女」、花嫁の代表として描かれることに中世美術においてどのような意義があったのかという根源的な問いである。それはすなわち、中世における後の美術作品にどのような影響を与えたかという問いと同義である。本稿では、〈バンベルク雅歌註解〉において、処女たちを代表する花嫁としての聖母マリアが描かれた意義をこのような文脈から再検討するうえで、本書が所蔵されていたバンベルク大聖堂の宗教・文化的環境を重視し、聖堂宝物である写本挿絵と聖堂彫刻との表現上の関連性の分析を行いたい。2.バンベルク大聖堂の宗教的特質と『雅歌』前述のように、〈バンベルク雅歌註解〉は、11世紀に神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ2世によって収集されたバンベルク大聖堂宝物のもっとも貴重な作品の一つである。1003年の聖母マリア生誕の祝日に建造が開始されたバンベルク大聖堂は、1007年には聖母マリアと聖ペテロに献堂された。大聖堂の建設は、その後1012年まで続けられ、同年あらためて聖母マリア、聖ペテロ、聖ゲオルギウスに献堂されている(注10)。ハインリヒ2世は1000年頃にクニグンデと結婚したが、そもそもバンベルク教区はハインリヒ2世から妻クニグンデへの結婚の贈り物であった。1024年にハインリヒ2世、1200年にクニグンデが死後に列聖され、神聖ローマ帝国内で唯一の聖なる皇帝夫婦となった。夫婦には子供がおらず、後継者ができなかったことが教会論的に解釈されてきたために、クニグンデは聖母マリアに倣った処女の花嫁として、また、ハインリヒ2世についても処女のような花婿として形容されたが、とくにクニグンデの「処女(virgo)」と「花嫁(sponsa)」としての特性による「第二の聖母マリア」としての崇敬は、ハインリヒ2世の崇敬を上回ったほどである(注11)。また、この崇敬が『雅歌』への註解に基づく花嫁神秘主義を主要な典拠の一つとしていたことは、13世紀の史料〈コンラートの説教〉(Sermo magistri Conradi, 1200年頃、バンベルク州立図書館、RB. Msc. 120)や〈聖クニグンデの説教〉(Sermo de sancta Chunigunda, 1200/1204年、ランバッハ修道院写本LIV)から明らかである(注12)。ここで、〈バンベルク雅歌註解〉の挿絵に戻ると、前述のように、聖母マリアは「処女たちの中の処女」である花嫁として表されているが、バンベルク大聖堂では設立者クニグンデがこのように処女かつ聖なる花嫁として崇敬された歴史的経緯があり、これらのクニグンデの美徳は、当写本挿絵に表された聖母マリアの特性ときわめて近し―204――204―
元のページ ../index.html#214