⑳ 近代朝鮮における女性書家・書画家の誕生と展開研 究 者:国立ハンセン病資料館 主任学芸員 金 貴 粉1.本稿の課題と先行研究朝鮮では1910年以降、展覧会制度の導入や印刷技術の向上、書画売買システムの確立など、書画をとりまく環境が近代化されていった。それに伴い、それまで男性を中心とした書画家の中に女性が登場することとなった。従来の研究では、近代以降導入された「美術」の枠組みで女性画家が注目されることはあっても、書画家として活躍した女性たちに着目したものは僅かであった。だが、2000年代以降、歌舞や詩書画を教養に持つ芸妓である妓生(キセン)を対象とした人物論やその作品論が成果を挙げつつあり、妓生を近代化の過渡期に生み出された存在と捉える否定的なイメージから、伝統芸能・芸術の担い手として肯定的に再評価されるようになり、男性中心であった書・書画史に新たな視点が加えられるようになった(注1)。本研究では、以上の点をふまえ、植民地期朝鮮において女性書家・書画家がどのように誕生することとなり、彼女らがいかなる活動を行ったのか、その展開について妓生の活動から明らかにすることを目的とする。特に、植民地期に入り誕生した妓生養成学校における書画教育の実態について着目していく。書画教育については近代朝鮮における初めての書画組織である書画協会の設立メンバーの一人であった海岡·金圭鎮と、1907年に芸術を教授する教育書画館を設立した守巌・金有鐸の活動が特筆される。金有鐸は平壌の妓生学校において妓生を対象に書画を教えた美術教育者でもある。彼らによって、どのように女性書画家が養成されていったのか、またそこで書・書画を学んだ彼女らの卒業後の書画活動がいかなるものであったのかという点について具体的に一次資料である当時の新聞記事や出品作品を通して検討を加える。2.近代朝鮮における妓生教育と養成学校妓生とは朝鮮時代においては掌楽院で技芸を学んだ生徒の意である。宮中、中央および地方官庁に所属していたため官妓とも呼ばれた。その後、1894年、甲午改革で官妓が廃止となり、新たに1908年に「妓生団束令」「娼妓団束令」が制定される。同年、妓生の所轄官庁が掌楽院から刑務庁に移ることとなり、「妓生」の社会的位置づけも変化した。つまり、それまでの伝統芸能を継承し、技芸を披露する妓生に加え、娼妓―212――212―
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