への取り締まりという認識が社会的に広まり、「妓生」の社会的な意も混合した状態となる。1908年頃からは全国各地に妓生組合が結成されていった。漢城妓生組合(1908年末頃結成)が京城(ソウル)で結成され、地方でも大邱妓生組合(1910年)、平壌妓生組合(1912年)、晋州妓生組合(1913年)などが登場し、京城には8カ所、地方には少なくとも35カ所存在した(注2)。全国的に結成され始めた妓生組合は、1914年に日本式の名称である券番に名称変更する。券番は、妓生育成の教育機関であり妓籍を置く妓籍組合であり、当時、妓生として活動するためには朝鮮総督府による許可が必要であったため、すべての妓生は券番に妓籍を置かなければならなかった。それでは、妓生養成を行う養成学校はどのようにつくられ、そしてその実態はいかなるものであったのだろうか。1927年12月3日付の『京城日報』には、券番付設の教育施設がつくられたことにふれ、「正式の学校組織となし教職を雇い普通学校程度の教授をなし立派なキーサンを養成」(注3)と掲載されており、妓生養成教育と現役妓生の技芸向上をはかったことがわかる。また、入学可能年齢は8~20歳までとされるが、実際は13~15歳程度の年頃からの入学が多く、一定の入学金と授業料を要し、親の許可も必要とされた。授業年限は3~5年が一般的とされ、日曜日を除き週6日登校し、授業は午前9~10時から午後4~5時までというように養成されるべき「妓生」が、さまざまな伝統芸能に秀でるだけではなく、「普通学校程度」の学問的な力の育成もめざしていた。授業内容については舞踊、時調、器楽、歌唱を中心とし、教養科目として書画、四君子、漢文、語学があった。ここからは、書画や四君子などの芸術よりも舞踊や器楽、歌唱などの音楽能力に注力されていたことがわかる。さらに、教師は数人が常任しており、著名な芸能従事者を招き教授していた。ただし、進級及び卒業には試験を要し、卒業時には各科目の教師ならびに警察関係者の立会のもと、審査が行われ、妓生認定証付与の判断基準とされたという点においては、「妓生」という職業が警察による取り締まりの対象として変容していったことがわかる。以上のように一般的な妓生養成学校においては、書画や四君子よりも舞踊や器楽など音楽に力を入れていたことが明らかになったが、中には書画教育を重視する学校も存在した。それは「平壌妓生学校」である。次にその内実について見ていきたい。―213――213―
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