2-1 「平壌妓生学校」の書画教育「平壌妓生学校」と呼ばれた箕城妓生養成所は、他の券番よりも体系的な教育課程を備えていた。それは、日本人音楽学者の田邊尚雄が1921年、平壌妓生学校を訪問して書いた「平壌妓生学校参観記」や「平壌妓生学校を訪ねて」(出版年代不明)という名の絵葉書群が残されていることから、当時、日本人にとって観光名所であったことがうかがえる。絵葉書にはカヤグム(朝鮮琴)、朝鮮舞踊を舞う妓生の姿とともに書画を制作する様子も写し出されている。平壌地域は他の地域に比べ、独立した妓生技芸教育の伝統があり、官妓制度の廃止以降、歌舞学校などと呼ばれた妓生学校において主に音楽と歌の教育を行った。他の券番付属教育機関と異なり、平壌妓生学校はその中でも書画教育に力を入れていた。入所人数は年60名とし、卒業年限は満3年であった(注4)。それでは、平壌妓生学校や書画学校ではいかなる人物が書画の教授にあたっていたのだろうか。つづいて特筆すべき2名を見ていきたい。2-2 「平壌妓生学校」書画教師・金有鐸(守巌・1875~1936)金有鐸は平安南道平壌郡大興副沙里出身で、平壌画壇を率いた梁基勳に師事した。四君子と花鳥に長けた人物である。1906年12月8日付の『皇城新聞』によると、ソウル鍾路区大安洞に守巌書画館を設立したことがわかる。1907年7月には、金圭鎮とともに西友学会の建物に書画販売と書画学院を兼ねた教育書画館を開設し、金有鐸は同年10月、教育書画館を開館させる。ここで一般向けに必要な書籍や書画、文房四宝等を販売した。また、1913年、尹永基が平壌に開設した書画家団体である箕城書画美術会に金允輔、蘆原相ら平壌地域の書画家とともに参加し、後学を養成した。1918年に結成された書画協会の正会員で、中央画壇とも緊密な関係を築き、創作活動も活発に行った。1923年の第2回朝鮮美術展覧会書部における「後出師表」をはじめ、1924年の第3回書部、第9回東洋画部に「牡丹」、第10回書部に「臨灘隠竹」が入選しており、その実力はよく知られた。さらに「平壌妓生学校」に通っていた学生に対し、当時、書画協会の発起人の一人でもあり、朝鮮美術展覧会において審査員を歴任した金圭鎮は教授していた。続いて金圭鎮について見ていきたい。2-3 金圭鎮(海岡・1868~1933)字は容三、号は海岡。その他、萬二千峰主人、東海漁夫、至空学人、至窓老樵等多―214――214―
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