数。本貫は南平。侍従院副卿・金起範の子。8歳の時に李喜秀に書を学び、1885年から1893年まで清に留学。書画家として、1901年には高宗の特命で英親王(皇太子)に書を教授。官吏の職を解かれた1907年以降も、天然堂写真館の開業や古今書画観を開設するなど精力的に書画に関わる活動を行った。また、1915年5月、古今書画観の建物に書科、画科の二科、三年制の美術教育施設である海岡書画研究会を開設(注5)。教材として自身が執筆した『書法要訣』、『蘭竹譜』、『六体筆論』を使用した。前述の通り、書画協会発起人の一人でもあり、朝鮮美術展覧会の書部門審査員を第一回(1922年)から第6回(1927年)まで歴任した。海岡書画研究会は女性の入会も受け入れており、1916年には10人余りの女性書画家たちが通っていたことが1916年11月5日付の『毎日申報』から見ることができる。その女性たちの中には、咸仁淑、金凌海、呉貴淑といった妓生書画家も含まれていた(注6)。このように妓生による芸術活動が新聞記事として掲載されることは、1910年代以前にはなく、1908年、官妓制度が廃止されたことによる大きな変化であると指摘できる。3.妓生書画家の誕生とその活動官妓制度が廃止された後、妓生たちは組合を結成し、活動することとなった。組合である券番は妓生を目指す女子に伝統芸能教育をさせ、一定期間学習を終えた妓生を明月館等の料亭につなげる役割を果たした。宴席での揮毫会の様子は、当時の新聞記事(注7)や絵葉書からもうかがうことができる〔図1〕。徐々に妓生は大衆的な存在となり、1920年代は化粧品広告モデル、劇場公演、ラジオ放送に出演し、芸能スターとして成功した者も増えた。新聞記事の広告だけではなく、絵葉書としても流通するようになる。メディアへの露出が増えるなど、妓生の活動は朝鮮時代とは異なる様相をとるものとなっていった。書画家として活動を始めた妓生たちもまた、新聞記事に取り上げられるようになり、作品だけではなく、その容姿とともに紙面を飾るようになった。具体的にどのような活動を展開したのか、続いて妓生書画家を順にみていきたい。①朱山月(翠眉、1894-1982)作品は1913年5月25日付の『毎日申報』に作品写真「蘆雁図」が掲載されており、これは妓生書画家だけではなく、女性書画家としても初めて新聞に掲載されたものであった(注8)。さらに5月29日にも「墨竹」が掲載される(注9)。1914年1月29日、―215――215―
元のページ ../index.html#225