『毎日申報』が連載する「芸壇一百人」に掲載され、当代の名妓として紹介された(注10)。しかしその後、妓生をやめ、1930年代には京城放送で歌手として活動した。②金錦珠(凌海、不明)平壌出身。1914年5月15日、『毎日申報』「芸壇一百人」に登場するほど大衆的な注目を集めた(注11)。1915年、共進会の美術館に咸仁淑と共に出品され、書画研究会会員展で金圭鎮と共に揮毫会も開いた。1922年、朝鮮総督府が主催する第1回朝鮮美術展覧会への出品準備をする記事が出るほど注目を集めたが(注12)、結局入選を果たせず、書画家としてこれ以上の活動を見せることはなかった。③咸仁淑(竹西、?-1921年以後)平壌出身。1910年代、揮毫会などで注目を集めた。博覧会などで揮毫するという記事が本人の写真とともに掲載され、妓生書画家への好奇な視線がうかがえる(注13)。さらに10月19日付けの記事においても「咸竹西の揮毫酬應: 18日から家庭博覧会で絵を描く美人の席上揮毫」(注14)と報道され、作品内容よりも容姿に注目した内容となっている。1920年には福岡で開催される福岡工業博覧会に金有鐸とともに参加し、揮毫会を開催することも行った。このことからも、師弟関係ではあるが、その実力が金有鐸から認められた結果であるともいえる。咸仁淑の墨蘭は、閔泳翊(1860-1914)の蘭法で描かれており、教本に忠実な姿勢を見せる〔図2〕。以上、3名の女性書画家についてみてきたが、1910年代以後に輩出された妓生出身の女性書画家たちの活動期間はいずれも短く、これ以上、活動を継続することはできなかった。しかし、書画を一般に広く普及させたという点において、重要な役割を果たしたといえるのではないか。それでは最後に1920年代に活躍した妓生書画家である呉貴淑についてみていきたい。④呉貴淑(山紅・虹月、1900-?)呉貴淑は1927年、李能和によって著された妓生史『朝鮮解語花史』において、書画に長けた名妓として唯一紹介されている(注15)。朝鮮美術展覧会第3回(1924)「蘭」、第4回(1925)「春蘭」、「秋菊」、第5回―216――216―
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