鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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(1926)「墨蘭」を出品し、入選したことで大衆的な人気を博した(注16)。1922年頃からは書画家の金容鎮に師事した。呉貴淑は、金応元と金圭鎮に1年ほど書と四君子を中心に指導を受け、その後、1920年代後半、書画修練のために東京に留学し、田口米舫に師事。この時、田口から「虹月」という雅号を得た(注17)。帰国してからはキリスト教に帰依し、宗教生活に励んだとされる。1963年、漢文で聖書の句を書いた書作品で展示会を持ったことが新聞記事に掲載されたが(注18)、その後の活動については不明である。書画は舞踊や音楽など、その後、放送界や演劇、映画界に進出し、名声を得た妓生出身芸術家らと異なり、書画家として経済的に自立していくことは困難であった。妓生らによる書画活動は、1913年以降、常に新聞を賑わしてきたが、朝鮮美術展覧会の書部門廃止にともない、同部門で活躍してきた妓生書画家の活躍の場も失われることとなった。植民地期における妓生書画家に関する新聞記事を調査したところ、〔表1〕にみるように、1910年代は10件、1920年代には11件であった一方、1930年代と1940年代については、各1件ずつとなり、掲載数が極端に減少していることがわかる。展覧会開催の減少という理由もあげられるが、何よりも「妓生書画家」という一般民衆からの関心が失われていったことにも起因されると考えられる。男性書画家とは異なり、妓生書画家として書画の修練を重ね、作品制作に邁進しても、純粋に作品に対する評価が下されなかったという彼女らの現実がここにあったのではないか。4.おわりに19世紀中葉、書画の需要が一般に広がり、ソウルだけでなく平壌、大邱、群山などの地方都市にも書画が流通することで、地方画壇も形成された。また、地方画壇の書画家たちがソウルに進出するようになり、存在感を増していった。その中でも当時、朝鮮第二の都市であった平壌の出身書画家が最も著名であり、平壌地域を舞台に活動した金圭鎮・金有鐸・尹永基などが妓生書画家の教育ならびに輩出に影響を与えたといえる。官妓制度の廃止にともない、妓生たちは新たな道を探ることとなる。妓生たちは1908年から組合を結成し、1914年に日本式の券番に名称を変え、妓籍をおき活動した。券番には付属の養成機関があり、舞踊や音楽等を中心に教育を行っていたが、平壌では平壌出身書画家の指導下で書画教育に力を入れていたため、新聞にも取り上げられるほど実力のある書画家が輩出された。―217――217―

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