鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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注⑴近年、妓生に関する文化、芸術的価値の再認識により歴史学だけではなく、文学、舞踊学、音楽学、女性学、観光学の視点からも研究が進展しつつある(川村湊2001、宋連玉2006、李良姫2007、許絹姫2008・2010、金多希2013、水谷清佳2019)。書・書画においてはその担い手としてチェ・ヨル(2013)、キム・スヒョン(2019)らによって着目されはじめ、作家および作品研究が進展しつつあるが、作品や資料不足があり、さらなる資料の発掘と調査が求められる。頁」 」『毎日申報』1922年5月24日⒀「共進会 !家庭博 !」『毎日申報』1915年9月27日⒁「咸竹西 揮毫酬應:18 東京⑵「京城の花柳界」『開闢』第48号、1924年、85頁~100頁⑶『京城日報』1927年12月3日⑷「1910~20⑸金圭鎮自ら教鞭をとり後進を育成。男子部と女子部が設置されていた。(『毎日申報』1915年7月13日)⑹「書画研究会 婦女会員」『毎日申報』1916年11月5日⑺「明月館妓生書画揮毫会」『毎日申報』1916年5月30日⑻「本社 実業家招待席上 名妓朱山月 揮毫」『毎日申報』1913年5月25日⑼「名妓朱山月 揮毫」『毎日申報』1913年5月29日⑽「藝壇一百人(2)朱山月」『毎日申報』1914年1月29日⑾「藝壇一百人(84)錦珠」『毎日申報』1914年5月15日⑿「朝鮮美展(6), 出品準備忙殺書畵大家:金凌海 「菊蘭」,『毎日申報』1915年10月19日⒂李能和は呉貴淑について、「時俗の雑歌を歌わず、書・画・玄琴・文学に専心し、学識のある人たちと楽しむのを好んだ」と記している。⒃『東亜日報』1924年6月1日⒄「南画⒅『東亜日報』1963年7月12日しかし、書・四君子よりも近代美術へ一般社会の関心がむけられていくと同時に、伝統的な書画を継承する妓生書画家へも関心が低くなり、徐々にマスコミなどへの露出も減少する。書画家としての活動を望んでも、「妓生の書画」として一時的な消費の対象となるにとどまり、書画家として経済的な自立は困難な状況であった。近年、再評価されている妓生書画家は、女性書画家の先駆的な存在として改めて朝鮮書画史の中に位置づけられる必要がある。」『毎日申報』1927年4月12日―218――218―」『東洋學』75、壇國大學校、2019年、79

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