査を実施し、作品の構造や彩色法などの解明にも努めてきた。また博覧会関係資料等の調査をおこない、展覧会出品歴、緑山を支援する委嘱家、受容者について報告。また緑山の遺族への取材から、履歴や人物像についても明らかにしてきた(注3)。その概要を以下にまとめておく。緑山の遺族からの聞き取り調査により、本名は和吉、雅号の緑山の読みかたは「ろくざん」ではなく「りょくざん」であることがわかった。また生年月日は1885年5月16日、没年月日は1959年5月6日であり、数え年75歳で亡くなったことが判明した。緑山は小澤卯之助の次男として浅草に誕生したが、早くに父を亡くし、金工職人の安藤彌太郎の養子となった。高等小学校卒業後、象牙彫刻を習い、のちに独立したという。さらに第二次世界大戦下の1944年頃、株式会社伊勢丹から派遣され、インドネシアのスマトラ島で牙彫の技術指導をしながら制作をおこなっていたこともわかった。作品の所在調査では、国内外に100件を超える緑山の牙彫が確認された。モチーフとしては茄子、竹の子などの野菜、柿、みかんなどの果物に加え、明治期以降に食用として一般化したパセリ、トマト、バナナ、パイナップルといった西洋果菜もみられる。また魚介や植物の作例もあり、果菜にかぶと虫、蜂、ねずみなどの昆虫や動物を組み合わせたものもある。これらに共通するのは、対象を克明に写し取ろうとする、執念とも呼ぶべき仕事ぶりである。形姿、大きさ、色彩、質感、そのすべてにおいて、本物の野菜や果物に肉薄している。手折った枝の不規則にささくれた切り口、病葉や虫食い穴のあいた葉の描写などからも、作者の優れた観察眼と細部にまで神経の行き届いた優れた技術が確認できる。牙彫は1877年頃から大流行をみせるが、それらは象牙の素材そのものの白色を生かす作品が主流であった。しかし緑山の牙彫の大部分には、対象に即した鮮やかな彩色が施されており、これが緑山作品の最大の特徴となっている。また作品の多くは「緑山(緑山乍)」または「萬象(萬象斎)」の彫銘を伴っている。緑山の牙彫は、1911~1928年に開催された日本美術協会の美術展覧会、東京彫工会の彫刻競技会に出品され、銅牌や褒状などを受賞している。そして、それらの作品はすべて牙彫師で牙彫商としても活躍した金田兼次郎により出品された。金田は緑山に作品を発注し、販売を代行、また展覧会への出品などをおこなう委嘱家、いわばコーディネーターのような存在であったと考えられる。同様に大阪・天王寺に居住した桜井宗斎も緑山の委嘱家であった可能性がある。緑山の牙彫の伝来を調べると、多くの作品が天皇家や宮家などに所蔵されていたこ―223――223―
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