とがわかった。これには宮内省御用達製造家を自称した金田兼次郎が関わっていると思われる。緑山の牙彫は、国内のごく限られた富裕層に愛玩されたものであったのではないかと想像される。さらに後継者を持たなかったため、緑山一代で途絶えてしまったという制作技法について、X線透過撮影、蛍光X線分析などの光学的調査をおこない解明を試みた。その結果、「松竹梅牙彫置物」、「パイナップルにバナナ牙彫置物」〔図3〕(ともに清水三年坂美術館蔵)のような、複数の部材で形成されたり、複雑な形をした作品には、その接合部にネジやさまざまな太さの金属棒が使われていることを確認した。また彩色には、主に金属を主成分とする無機系の彩色材料が用いられた可能性が高いことがわかった。2 牙彫の彩色法について牙彫は、江戸時代には根付や煙管筒として生活に定着していたが、明治時代に入ると牙彫の置物が外国人向けの土産物として人気を博し、量産されるようになった。それらは、彫刻家の高村光雲(1852~1934)が「彫刻の世界は象牙で真ッ白になってしまいました」と語ったように(注4)、象牙そのものが持つ乳白色を生かしたものであった。緑山の彩色牙彫が文献上で初めて確認されるのは、明治44年(1911)の日本美術協会第45回美術展覧会に「牙彫著色果実置物」を金田兼次郎が出品した記録である(注5)。三等賞銅牌および技芸賞銅牌を受賞した本作は、目録中に「牙彫着色」と記されており、他の無着色の牙彫との違いを明示する狙いがあったと推察される。中村氏によれば、着色法を一切秘密にし、後継者も持たなかったため一代で途絶えてしまった(注6)とされる緑山の技法を探るため、かつて筆者は国立民族学博物館の協力を得て「果菜牙彫置物」「貝尽牙彫置物」(ともに三井記念美術館蔵)の蛍光X線分析を実施した。その結果、Si(ケイ素)、W(タングステン)、Al(アルミニウム)、Mn(マンガン)、Fe(鉄)などの金属を主成分とする無機系の彩色材料が用いられた可能性があると確認された(注7)。ただし彩色材料を確定するには、具体的な塗料を予測したうえでの再現試験などをおこなう必要があり、未だ結論にはたどり着けていない。象牙の彩色法に関する文献資料としてよく知られているのが、明治22年(1889)の序文を持つ相馬邦之助の『象牙彫刻法』である(注8)。該当箇所を以下に引用する―224――224―
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