良~平安時代前期の瓦塔や10世紀に栄えた湖西地区の大知波峠廃寺等、10世紀以前の仏教文化の痕跡が知られ、それに伴って仏像が制作された状況も想定される。⑵ 12世紀の作例遠州地域の仏像の多くを占めるのは12世紀の作例である。西楽寺の阿弥陀如来及び両脇侍坐像は玉眼像であることが知られるが、同時期の玉眼像として応賀寺の四天王立像があげられる。応賀寺像は13世紀の作例とされるが、持国天や増長天の垂髻の形状、高く量感のある腰周り、控えめな動勢等は普門寺の四天王立像や摩訶耶寺の持国天立像(ともに12世紀)に近似する。面部内側から玉眼嵌入のため彫られたノミ跡〔図5〕は周囲のそれと大差ないように思われ、応賀寺像の制作は、玉眼像としては古く、12世紀にまで遡る可能性もあろう。宣光寺の地蔵菩薩坐像は、永暦元年(1116)に仏師・讃岐によって造像された。銘文に檀越として「大判官代」の名が記され、地域の有力者であった在庁官人が定朝様式の仏像を受容できた可能性が指摘される(注3)。また、三遠国境を越えるが、新城地区・林光寺の薬師如来坐像(嘉応2年〈1170〉)の銘文で散位を名乗る伴正宗・親兼の地位として、地方貴顕、上層百姓、荘官級の有力者、在庁官人やその母体層が想定されている(注4)。12世紀の遠州・東三河地域には有力貴族や寺社に私有地を寄進した荘園が多数あったと考えられ、『池田荘立券状』(嘉応3年〈1171〉)には、池田荘と川勾荘との境界争いが記される。定光寺(旧蓮華寺)は、天竜川の流れの変化でその位置は比定し難いが、池田荘域周辺に所在し、千手観音立像は温和な表情と円満で柔らかな輪郭、浅く整えられた流麗な衣文の彫り等、正統的な作風を示す。これに酷似する聖観音立像〔図6〕が、遠州地域から離れた愛知県知多郡南知多町の岩屋寺に伝わり、定光寺像が岩屋寺像同様に中央仏師の手によるものであることを印象付ける。定光寺には毘沙門天立像と不動明王立像等も伝わり、ともに12世紀の作例と見られる。池田荘との関連は断定できないが、荘域周辺に中央仏師の関与を伺わせる作例を含む12世紀の諸像が伝わる事実は注目に値する。⑶ 13~14世紀の作例岩水寺の地蔵菩薩立像(建保5年〈1217〉・運覚作)と応賀寺の毘沙門天立像(文永7年〈1270〉)は像内納入品で、林慶寺の大日如来坐像(延慶3年〈1310〉)と大福寺の薬師如来坐像(正和2〈1313〉)は銘文にて、それぞれ制作年が明らかである。応賀寺の薬師如来坐像は、粒の細かい螺髪、流麗な衣文表現は12世紀の作風を基調とするが、理知的な面貌、脚部の衣文の彫りの深さは定朝様式とは一線を画す。頭体幹部を一材から彫出する素地像で、割矧造とするが、割首を施さない点は遠州地域では―14――14―
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