鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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㉒ 亜欧堂田善の銅版画研究─線刻・点刻表現から見る西洋版画受容の諸相─研 究 者:福島県立美術館 主任学芸員  坂 本 篤 史現在の福島県須賀川に生まれた亜欧堂田善(1748~1822)は、司馬江漢(1747/48~1818)と並んで江戸後期を代表する銅版画家の一人である。本研究の目的は、亜欧堂田善の銅版画作品に表れた西洋版画受容の痕跡を、主に線刻・点刻表現の側面から分析し、田善の模倣から創作へと至る過程やその諸相、展開について考察するものである。1 先行研究と問題の所在現在では日本でも一般に知られた銅版画は、もとを辿れば安土・桃山時代に西洋からもたらされたものであり、日本ではなじみのない技法であった。当時キリスト教の伝来とともに宗教図像を刷った西洋銅版画が日本でも流通したが、その後の江戸幕府による禁教令とともに、銅版画に関する関心も薄れていった。だが、享保年間(1716~36)以降蘭学熱の高まりとともにふたたび銅版画に注目が集まり、天明3年(1783)9月には、田善より1歳年上もしくは同い年の司馬江漢が日本創製、つまり日本初となる腐食銅版画(エッチング)作品《三囲景》の制作に成功した。銅版画は無数の細かな描線もしくは点描等で絵作りが行われ、線を平行に重ねたり(ハッチング)、交差させたりすることで(クロスハッチング)、あるいは点描の密度を変えることで、陰影や量感(立体感)を表現することができる。こうした特性から、銅版画は写実描写に向いた技法といえるが、のちに田善を庇護した白河藩主・松平定信は、江漢の腐食銅版画を「細密ならず」(注1)と記し、その出来ばえに不満を漏らしていた。田善に銅版画の習得を命じたのは、この定信であった。ふたりの出会いは、寛政6年(1794)にさかのぼる。それ以前、田善は兄・丈吉や伊勢の画僧・月僊から絵を学んだものの、いわゆる職業画人ではなく、家業を手伝って生計を立てていたと考えられている(注2)。しかし、これを機に田善は、同じく定信のもとで活動していた谷文晁のもとで、本格的に画業に専念することになる。田善は寛政8年(1796)に定信より白河に召し出され、同10年には出府を命じられたと伝えられる(注3)。江戸ではオランダからもたらされた定信所蔵の銅版世界地図を主君から示され、腐食銅版画技法の習得を命じられた。この時田善が目にした銅―235――235―

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