鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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注⑴松平定信『退閑雑記』巻之2(森銑三・北川博邦編『続日本随筆大成』6、吉川弘文館、1980実な再現能力が求められた。そうした職務を託された田善は、改めて製版技術の研究のために、西洋版画の摸刻研究を行ったのではないだろうか。結論以上考察してきたとおり、田善は銅版画制作の最初期には、銅版画特有のハッチングやクロスハッチング、点刻表現などを忠実に模倣しようと努めたが、技術が未熟なため、摸刻の精度は高いとは言いがたい。その後文化年間(1804~1818)前期頃から、平面的、装飾的な線刻表現や独特の点刻表現を追及し、西洋銅版画における迫真的な写実表現とは一味違った異なる表現を確立したように思われる。一方、その後ふたたび西洋銅版画に関心を向け、精度の高い摸刻を行うようになるが、そうした背景には、地図や解剖図の制作を要請されたことが背景にあったのだろう。最後に付言するならば、《ゼルマニヤ廓中之図》はたしかに手本である西洋銅版画に最接近した銅版画のひとつと言えるが、たとえば《大日本金龍山之図》と比較すると、その差は歴然としている。両者は対作品であったと考えられるが、《大日本金龍山之図》の人物表現には、原図から解放された軽妙な線刻表現が見られ、デフォルメされた人物の輪郭線と相まって、摸刻銅版画にはない魅力をたたえている。田善は西洋銅版画に従属することなく、あくまで独自の表現の模索を続けていたことは強調しておかなければならない。年所収)。⑵田善の末裔が明治年間(1868~1912)にまとめた『永田由緒』に基づく。このうち田善に関する履歴は以下に抜抄されている。松岡まり江編「『永田由緒』抜抄」『没後200年亜欧堂田善:江戸の銅版画・創造の軌跡』福島県立美術館、千葉市美術館、東京新聞、2022年、273頁。⑶「『永田由緒』抜抄」注⑵。⑷菅野陽「亜欧堂田善製作の銅版画と阿蘭陀版『全世界新地図帖』の銅版画(上・下)」『美術研究』329・330、1984年、22-33、43-49頁。⑸菅野陽『日本銅版画の研究:近世』美術出版社、1974年。⑹ただし、現在確認されている田善の銅版画には有年紀作品が少なく、作品の編年を明らかにすることは難しい。本稿では暫定体的に、『没後200年亜欧堂田善』注⑵に基づいて考察する。⑺菅野陽、前掲論文注⑷、24-25頁。⑻田善は狩人の矢筒の位置を全体のバランスを考えて変更している。ただし、複数のイメージソースを組み合わせ、それを忠実に模刻したことで、左右の人物と中央の壺では、影の向きが異なり、明暗表現は統一が図られていない。―241――241―

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