鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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⑼菅野陽『江戸の銅版画』、新潮社、1983年、97-103頁。⑽《洋人曳馬図》(『没後200年亜欧堂田善』前掲書注⑵、No.23)、《曳馬図》(同No.24)、《洋人曳馬・地球儀》(銅版画見本帖;同No.82-2)、《DE ZUIDER ZEE》(同No.116)。このほか帰属に疑義が呈されている《ミメクリノツ》(同No.196)のほか、奉納絵馬《洋人曳馬図》(同No.21、福島県小野町、東堂山満福寺)などもリーディンガーの図像を摂取して制作されたものである。⑾金子信之氏は、《陸奥国石川郡大隈瀧芭蕉翁碑之図》の遠景の山並みや岩の表現について「もはや迫真からは離れた不思議な描写」と述べており、迫真的な写実表現とも異なる、田善の表現様式に着目している。『亜欧堂田善の時代』府中市美術館、2006年、140頁。⑿通称〈小型江戸名所図〉シリーズを構成する《霊岸島湊之図》右下でも、こちらに背を向けた人物の背中に点刻が刻まれており、刺青のような模様が表現されているように思われる。⒀菅野陽、前掲書注⑸、291頁。⒁西村貞『日本銅版画志』書物展望社、1941年、;松浦靖也「亜欧堂田善の銅版画に関する諸考察:「佃浦風景」、「ゼルマニヤ廓中之図」を中心に」『日本近世美術研究』3、2020年、63-101頁;拙論「亜欧堂田善の銅版画受容の手法と特色:《ゼルマニヤ廓中之図》《素描(洋人)》を中心に」『DNP文化振興財団学術研究助成紀要』3、2020年、66-77頁。⒂《ゼルマニヤ廓中之図》が《古代ローマ繁栄の図》を原図とすることは、西村氏以前からすでに知られていたように思われるが(西村貞、前掲書注⒀)、田善がどの版を参考にしたかは厳密には不明であった。筆者は本研究助成期間に、各原図と田善作品を詳細に検討したところ、1756年のロバート・セイヤー版がもっとも田善に近いという知見が得られた。―242――242―

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