鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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㉓ 近世中後期における画家と北関東の受容者の交流について研 究 者:佐野市立吉澤記念美術館 学芸員  末 武 さとみはじめに絵画の制作において、発注者・受容者の意向や教養がその内容に大きく関わってくることはよく知られている(注1)。公家・武家・寺社や都市部の発注者・受容者については、すでに研究が蓄積され、作品の制作背景のみならず画家の活動や美術史の展開を考える上での重要な要素として認められている。地方の受容者についても、地域研究や旧家のコレクション研究の一環として、各地で蓄積が進んでいる(注2)。報告者も近年、下野国葛生の豪農・吉澤松堂(1789~1866)の作品と史料から、高久靄厓や渡辺崋山・椿椿山系(以下崋椿系)画人との関係の深さや地方文人のネットワークの存在を示してきた(注3)。松堂は画家の画業に決定的な影響を与えるような、パトロン的な「大きな受容者」ではないが、そのような「小さな受容者」たちが全国各地に無数に存在したということ自体が、近世中後期の絵画の展開を特徴づける重要な要素であると考える。これらの無数の「小さな受容者」たちは同時に、書画や文芸に自ら親しみ文化活動を行う「地方文人」でもあった。彼らの存在と分布について、近世史において在村文化研究を行った杉仁が、次のように鮮やかに描き出す。 しかし史料を忠実に見てゆくと、あらゆる地域でおびただしい数の人びとが、おもに村名を肩書とする「雅号」で、面状に海のようにひろがって活動している。場所は、全国すみずみまでひろがる農村・山村・漁村。一地域内にとどまることなく、流通路をとおして思わぬ遠い地域ともつよく結ばれる。地方文人(注4)たちが「面状に海のように」ひろがるさまを示すこの一節に続き、杉は彼らが「村役人~豪農商層」であることを指摘する。先述の吉澤松堂も、他の数名と共に葛生町の「年番名主」を担った町役人で、かつ農業・町役のほか地主・醸造などの豪農経営を行っており、杉の示した「在村文人」像と合致する。地方の受容者層について考えるにあたり、多数の地方文人が存在し、彼らは「村役人~豪農商層」であるという杉のこの指摘は心強い立脚点となる。その一方で、杉が杉仁『近世の地域と在村文化─技術と商品と風雅の交流─』吉川弘文館、2001年、2頁―246――246―

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